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『ヒッチコック「逃走迷路」』

ヒッチコック ブルーレイ コレクションが出たので早速購入。
「ハリーの災難」「鳥」「逃走迷路」を観ましたが映像がきれいです。
音響もかなり解像度が上がっていて素晴らしいと思います。

ヒッチコック監督の「逃走迷路」
1942年の作品。
演出テクニックについてはいくらでも称賛や解説がありそうなので、この作品で特徴的かつ避けて語れない政治的表現について書いてみる。

「風と共に去りぬ」で有名なプロデューサー、セルズニックの招きで渡米して5作目。
セルズニックは資金難でヒッチコックを他の会社へ貸し出したりしていたそうで、この映画はフランク・ロイド・プロダクション製作になっています。

新天地アメリカで、しかも戦争中の渡米だったので航行中はドイツ軍の攻撃を警戒しながらで相当な緊張感だったようだ。
戦前戦中の映画は少々の政治色が入っているけども、ヒッチの主観がどれほど反映しているのかは正直分からない。

最初の脚本会議の時、真珠湾攻撃の一報が飛び込んできたそうです。
そういう時代のアメリカ映画です。

あらすじ
第二次大戦中。軍需工場で働くバリーは破壊工作の嫌疑を受ける。
潔白を証明するために彼だけが目撃した犯人フライを探すため警察を振りきってしまう。
引くに引けない状況で、途中知り合った美女パットを巻き込んでの逃走劇。


「無実の罪を背負った主人公が身の潔白を証明するために敵と戦う」
シンプルな筋立てで、この種の映画のお手本のような作品です。
スピルバーグの「マイノリティ・リポート」はヒッチコックへの見事なオマージュだと思う。

こういう状況設定は人物が能動的に動くので楽ですが、あくまで手法であって目的(映画そのもの)は別にあります。
状況や人物設定のおもしろさなら映像でなくてもできますからね。
目的と手法を混同すると結果を誤るのは、政治経済の話(だけでなく凡そ全ての人の営み)と同じなのです。

ヒッチコックの真骨頂は映像による多層的な人間描写・心理描写にあり「映画」そのものです。
テーマ性に左右されず、時代を超える表現に溢れていると思います。

偏らない表現と皮肉なユーモア

戦時中(アメリカ参戦前も含めて)の映画「逃走迷路」「海外特派員」「救命艇」の3本では連合国や民主主義の論理を一方的に賛美することはない。
主人公が正義に燃えていたとしても敵側の論理にも説得力をもたせようとしているところは誠実だと思う。

ヒッチ作品の全体的な特徴として、敵役を魅力的に描く点があります。
この映画でも、首謀者トビンの住処はプール付きの立派な農園。
トビンはプールで孫と遊ぶ姿が初登場で、理知的でユーモアを理解し孫を可愛がる紳士として描かれています。
後半のアジトも豪華な邸宅で、家主は表向きチャリティも行う富豪だが、バリーの企てで自分の宝石をオークションに出さなきゃいけなくなり、本当は嫌なのを押し殺して笑顔を作るところが可笑しい。
手下もみなきちんとした身なりな紳士で家族の話をしたり自己愛っぷりを語ったり余裕たっぷりに描かれています。

悪い奴は見た目や素行からして悪そう、ていう一方的な描き方はしません。
主人公バリーと、直接対決するフライの二人はどこか孤立していてギラギラしている。
敵味方に別れた二人はどこか双子のように描かれてると思えます。

利己主義の明確さ と 相互信頼の脆弱さ

「逃走迷路」には敵・味方に印象的な表現が多々あります。
敵側
主人公二人が邸宅から逃げ出そうとダンスを楽しむ人々に紛れ込むシーン。
人々に「ここは工作員の巣窟だ」と訴えても誰も信用せずダンスに夢中。
頭のおかしいヤツ扱いを受けてしまい、通報されてしまう。
真実を訴えても考えもせず排除しようとする。場の空気に流される大衆が敵に加担してしまう。
まさに「バカ:スパイ=9:1の法則」
一握りのスパイによって大衆が扇動され、真実が受け入れられなくなる恐怖だ。
日米はコミンテルンの謀略にハメられ対立を止められず開戦してしまいました。さすがにヒッチや脚本家がそれを知ってたとは思えませんが、戦争の真理を捉えていたのかもしれません。
(21世紀の現代日本にも同じ問題はしっかりありますけどね。)
敵側は私利私欲のためにとりあえずまとまってる集団に過ぎないのです。
…まるで民主党のようですね。

バリーは逃げられずパットとも引き離されてトビンの元に戻されます。
トビンは大きなソファーにゆったりと座って持論を語る。
彼は「民主主義は合理的ではない」「大衆は愚かだ」と言い全体主義の優越性を説くのだが、全体主義を信奉しているのではなく、自分の優雅な生活の維持のため利用しているに過ぎないところがリアルだ。
敵側はそれぞれが自分の利益を求めていて祖国に愛がないのだ。
このシーン。トビンのカットは全て引き絵で、堂々とした威圧感がありますが、ライティングの演出でどこか淋しげな哀れな感じに見えます。

トビンはバリーを処分するよう命じて社交場へ戻ります。
そこではバリーを陥れるのに加担した大衆が、何も知らず楽しそうにクルクル踊っている。
この映画の最も恐ろしいシーンだ。

味方側
「民主主義 対 全体主義」の構造は登場する多彩な人物によって描かれています。
バリーの逃走を手助けするトラックの運ちゃん、目の不自由な老人、サーカス一座の奇人たち。
彼らは様々な民族、個人差、格差など多様な人々を象徴する人たちだ。
バリーとパットはサーカス一座のトレーラーへ逃げ込む。検問で止められ警察が近づいてくるピンチ。
バリーは事の次第を説明するのだが、警察に突き出すか匿うかで意見が割れてしまう。
「ここは民主主義で」と奇人たちのリーダー「骸骨男」の提案で議論し採決することに。
最後の一票を担った「ひげ女」は二人が信じあっていることを「正義」の根拠として匿う方に賛同します。
最後まで「突き出してしまえ!」と主張してた「小さい独裁者」は発言を封じられてしまう。
緊急時にはリーダーの決断に従わなければ大変なことになりますからね。
ここも単なる美談、民主主義の賛美になっていない。
彼らは彼らの願望でバリーたちを見ているし、ヒロインのはずのパットはバリーを何度も疑ってしまう。
この時も工作員の疑いを捨てておらず仕方なくバリーに従っただけなのだが、ひげ女の純真さに自分の小ささを恥じてバリーを信じることになる。

社会から排除されてきた奇人たちが「何が正しいか」を見ず知らずの者のために真剣に考え選択する。
私利私欲でなく公を意識した望ましい共同体を象徴していると思う。
リア充的アメリカ市民として描かれるパットの方がよほど利己的で軽薄な正義を振りかざしているのが皮肉だ。
パットはこの後もう一回疑ってしまうし、ブレすぎてて賢い女性に見えないのが残念なんだけど、誰もが彼女のようになってしまうことは否定できまい…。

トビンの言う通り民主主義には様々な行程と手続きが必要で「合理的」と言い難い。
白か黒か、好きか嫌いか、得か損かで安直に判断せず、本質を見極めようとする努力なしに本当の民主主義は機能しないわけです。
味方側は決して一枚岩でなく方向性を定めるのに苦労しています。
バリーが工作員ではない、という一点の真実のみが彼と観客が共有している(映画上の)正義なのです。


正しさを証明する面倒な手続きを根気よく乗り越え、バリーたちはやっと信用を取り戻し、アイデンティティを取り戻します。
映画は最後のクライマックス、自由の女神でのバリー対フライの対決に至ります。
すでに本質的なカタルシスは終了し、アクション的な見せ場を作ってスパっと映画を閉じます。
比較的オーソドックスな演出から特撮ありスーパーショットありの演出に転換するメリハリが見事。

敵の組織はどうなったの?トビンは捕まったの?
とかツッコんではいけません(笑)
そこはこの映画の本質じゃないんです。


日常生活では人の心の内が見えたり見えなかったりするのが楽しかったり辛かったりします。
心理は見えない触れないものですからね。
ある意味、これを超えるエンターテイメントのネタはないように思います。
どんなに映像が豪華でも心の内を想像させてくれない映画はつまらない。
見せるんじゃなくて想像させる映画。
ヒッチコックの映画には、映像によって「見えないもの」を想像するおもしろさが溢れています。



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《憲法は精神である》

タイトルは瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』にある見出しです。

「憲法」とは何か?
国家の基本的条件を定めた根本法
米国・日本などのものを成文憲法という
米国の憲法は成文憲法としては最古のもので,1787 年に起草,1789 年に発効,1790 年に全州により批准された
英国のものは成文化されたものがなく,慣習法による不文法でそれを不文憲法という。(辞書より)


当時の先進諸国が憲法制定するまでに、それはそれは恐ろしい歴史が欧州や米国にありましたが、その歴史は省きます。

キーワードは
誰が、誰のために、どのように?


東アジアに迫る欧州や巨大なロシア、新興国アメリカなど「世界」と付き合っていくため近代政治の礎となる憲法の制定を諮った明治初期の日本。
「郷に入れば郷に従え」式に明治四年(1871年)から三度、欧州へ使節団を送り勉強に努めた。
その成果として18年後の明治二十二年、大日本帝国憲法が作られ翌二十三年十一月二十九日施行されました。
長い研究の成果として制定されたのが大日本帝国憲法(通称:明治憲法)です。

帝国憲法には現代からすれば問題点があるとされます。
制定過程で自由民権派が弾圧され一握りの者によって作られたものだという意見もありました。しかし、民権派の私案も天皇の統帥権など帝国憲法と違いは然程なかったようです。
ここでは個別の問題点ではなく、日本の憲法制定の歴史を振り返り、憲法そのものについて考え書いてみようと思う。

八木秀次著『明治憲法の思想』、瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』から印象的なエピソードを引用し資料を参照しつつ書いていきます。

「憲法は法文ではない。精神であり、国家の能力である」

明治十五年(1882年)憲法調査のため渡欧しドイツ、ベルリンに滞在していた伊藤博文は法学者ルドルフ・フォン・グナイストに講義の申し入れを行った。
その時のグナイストの言葉は以下のようでした。

グナイスト「それは遠方からドイツを目標にお出でくださったのは感謝の至りだが、憲法は法文ではない。精神であり、国家の能力である。
私はドイツ人であり、かつ欧州人である。欧州各国のことはひと通り知っている。ドイツのことは最もよく知っている。が僭越ながら日本国のことは知っていない。
それも研究したら解るだろうが、まず私から日本のことをお尋ね致そう。
日本国の今日までの君民の実体。そして風俗・人情、その他、過去の歴史を明瞭に説明して貰いたい。
それについて考えて、ご参考になることは申し述べてもよろしい。それを申し上げるけれども、確かにそれが貴君のご参考になるかどうか、憲法編纂の根拠になるかどうかは私には自信はない。」

八木秀次著『明治憲法の思想』p19。(瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』p96 にも同じ内容の引用あり。)

これはどういうことでしょうか?

別なエピソードを見てみる。

「日本国は歴史を異にし地形を異にし人種を異にして居りながら、独逸の憲法其儘とはどうも変だ。真似にも程があろうに」

大日本帝国憲法が発布される明治二十二年(1889年)初頭。
ベルリンに居た新渡戸稲造は、とあるドイツ人宅でほかのドイツ人客とちょっとした言い合いになったそうだ。
以下先述の「文明史のなかの明治憲法」より若干アレンジして…
ドイツ人「そなたの国でいよいよ憲法が発布されるそうだが、あれってドイツ憲法の真似であろう。」
新渡戸「真似じゃないです。少しは違いますよ。」
ドイツ人「違わない。真似。パクリだ。」
新渡戸「違う!ヽ(`Д´)ノ 」
ドイツ人「ヽ(`Д´)ノ違わない! 」
    「だいたい、ドイツと日本は歴史も地形も人種も違うのに
     ドイツ憲法パクるっておかしいだろう。」
新渡戸「ぐぬぬ、百歩譲って似てるってことにしてだ。」
   「歴史や地理や人種が違っても、憲法は治者と被治者の権利義務を
    掲げるんだから、概ねどこの国のものだって似通ってくるでしょう。」
   「それでもパクリだというなら、ドイツ憲法だってアメリカ憲法の
   『大統領』を『帝王』に、『共和国』を『帝国』に書き換えただけで
    似たようなものじゃないか。」
ドイツ人「違う。ドイツは帝国で、アメリカは共和国だ。」
新渡戸「名前が違うだけで権利義務を明記するとこは変わんないじゃ〜ん。」
   「ていうか、あなたアメリカ憲法読んだの?」
ドイツ人「読んでない(・∀・)」
新渡戸「( ゚д゚)…」

セリフはアレンジ入ってるのでアレですが…ホームパーティには不釣り合いな言い合いに発展してしまったらしいことは想像出来ます。
どちらも間違っていないと思いますけどね。

先のグナイストの発言と新渡戸とドイツ人の応酬は「憲法とは何か?」考えるヒントが含まれています。

グナイストの考え「法は民族精神の発露である」
ある民族、国民が長い歴史の中で育ててきた共有認識を文書化したもの。
ゆえに、グナイストは伊藤の期待に答えるためには日本国のあらゆることを知らなければ不可能だ、知ったとしても(他国人の付け焼刃では)自信はない。と言っているのでしょう。

一方、新渡戸とドイツ人の言い合いではどうでしょうか。

ドイツ人はグナイスト同様、国の個性によって憲法は成立つと主張します。
新渡戸は「治者と被治者の権利義務を掲げるのである」から王様×民衆、大統領×民衆…関係性の名前がどうであれ、両者に縛りを設けることは憲法に必要なことである。
つまり、どうしても書き込まねばならないことは万国で共有され得る。と考えていたわけですね。
今風に言えば「価値観の共有」でしょうか。

では、ある国のすべての事柄が他国にも共有可能かというとそんなことはありません。
宗教や言語、死生観、生活習慣、家族観、商習慣…様々な違いが国々にあります。

Constitution = 憲法?

元々英語の「Constitution」に漢字をあてたのが「憲法」です。
ですが、Constitutionには憲法以外に「構成、組織、構造。体質、体格。気質、性質。政体、国体」の意味があります。

国を構成するもの…構造…気質…国体…。国柄ですね。
国柄はどうやってできるか?
人柄が血のつながりも含めて長い時間をかけて構築されるように、歴史の積み重ね、伝統・文化といったものが国の個性になる。
国の個性=国柄を憲法として文字で全て書ききることは可能でしょうか?
無理だと思います。
1人の人間の個性すら言葉で説明したり文字で正確に書くことは不可能ですし、できるなんてのは傲慢でしょう。
日本人に憲法制定の助言を受けたグナイストが、日本のすべてを知らないと助言はできない。知ったとしても自信はない、と言ったのはちょっと意地悪ですが謙虚な姿勢だと思います。
外国人が他国の憲法にどうこう言えないのは当然ですね。

憲政史家の倉山満氏は、憲法とは国のかたち(歴史伝統文化)であり、その中からどうしても必要なことだけを書き記したのが憲法典である。と解説しています。

イギリスが成文憲法なしでやっていけてるのは歴史伝統文化の蓄積(判例)によって各法律が運用されているから。

国の個性たる憲法は歴史伝統文化、つまり国民の営みから生まれ、時代によって漸進的に修正されていくもの。
国の個性から抽出されたどうしても必要な(普遍的な)ものが憲法典であり改正には慎重であるべき。

では、その憲法典は日本なら日本の個性を反映したものにできるんでしょうか?

伊藤博文はグナイストの言葉に悩まされた後、ウィーンで国家学者・社会学者のウォーレンス・フォン・シュタインに助言を求めた。
『明治憲法の思想』からやや現代語調に改めて引用します。
「古来の日本の歴史に問い、これを現実に照らし、かつヨーロッパの学問を吸収せよ。」
「本国の事実を知らずしてこれを他国に求めんとするものは、すなわち研究の基礎を欠くものなり」
シュタインはこのように説いた。
日本の立法や憲法は何より日本の歴史と文化に根ざしたものでなければならない。
まず日本の歴史を研究せよ。


グナイスト、シュタイン、新渡戸の意見を総合すると以下のようになると思います。
憲法に則り憲法典を書き記す、ということは。
国の歴史伝統文化に則り、どうしても書き記す必要のあることを突き詰めることによって国家・国民の基礎とし、自国の個性を世界に表すことができる、ということ。

アメリカに始まり、ドイツや欧州に広がった近代憲法はこのような精神で作られたのでしょう。
日本もまた、欧州での研鑽を元に自国の歴史文化を問い近代憲法として形にしたのです。



さて。

いまの日本国憲法は誰が、誰のために、どのように作ったんでしょうか?
(ここまで読んだ方は こう訊かれて恥ずかしい気持ちになってませんか?)
日本国憲法には英語の原文が存在します。
外国人にも読んでもらうために英文を作ったんでしょうか?
違います。
占領期に一握りのアメリカ人が作り、日本の官僚が一週間ほどで修正・邦訳したもの。
それが日本国憲法です。

特定のイデオロギーを持ち出すまでもなく歴史的な近代憲法の理念に則れば
日本国憲法は「憲法」に依らず作られた、「憲法典」の体をなしていない外国人の作文と言って差し支えないでしょう。
主導したアメリカ人もまさか日本が主権回復後も使うとは思っていなかったそうです。
アメリカ人も憲法のなんたるかを知っていたから「まさか使うとは」と思ったのでしょう。


そんな憲法を受け入れ続け一行も変えるなというのは自己否定になりませんか?
憲法論議を危険視させるために「戦争」を持ちだして恫喝するのはよほど危険だと思いませんか?
敗戦と戦後の日本を前提に閉じ篭るのはバカらしいと思いませんか?
日本の古代、権力者や貴族を対象にした十七条憲法や大宝律令から、国家と国民との間に憲法が生まれた明治までの歴史が、占領軍による憲法制定によって中世か古代まで逆戻りしたことを「良し」とするのでしょうか?


個別論や憲法の条文を幾つかを取り出してこねくり回す議論(しかも年に一度のブーム)にはほとんど意味を感じません。

世界の憲法がどうだったのか。
その中で日本は何を選択したか。
その良し悪しはどうなのか。
自力で作ってない日本国憲法を改正の対照することは論外です。
自分で作ってないものをどうにかしようとするからオカシナ議論になるのです。

まずは、日本の歴史伝統文化の成り立ちを問うことからはじめなければ、自民党であれどこであれ、憲法改正案は日本国憲法と同じ紙くず同然と言って良い。


日本とは?
憲法とは何か?
誰が、誰のために、どのように作るのか?

焦らずに問い直し改めましょう。



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谷田川 惣「皇統断絶計画」

谷田川 惣さんの「皇統断絶計画」を読みました。

2673年、今上天皇で125代続く皇室、皇統というものが何なのか「女性宮家」をネタに日本文化の源泉を訪ねる趣向になっています。
「皇統断絶計画」というタイトルは少々刺激的ですが、本書第十章の後半の見出しから採られたようです。
あえてそのように表現して女性宮家創設の危険性を説いているわけですが、全体としてとても丁寧に解説されていて、図解やイラストもあって中高生でも楽しく読めるのではないかと思います。
学校の図書館に置いてほしい一冊だと思いました。(日教組は拒否しそうですが…)


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伊勢神宮を参拝した日記で「目に見えないもの」を大切する文化があることを書きました。
あの時はそういった概念はなんとなく感覚でわかってたものの、実際にそれを裏付ける歴史が存在することは知りませんでした。
殆どの日本人もそうだろうと思います。

なぜ日本人が「察しと思いやり」を重視するのか。
普段の人間関係や仕事の中でも契約書のような物理的な物より「信頼」を重視しようとするのか。
なかなか説明の付かない個性的な感覚、文化を持った日本、日本人の感性の源泉はどこにあるんだろう?

この本は、そんな疑問に対してひとつの回答と自信につながる「論理」の助けになると思いました。

本に書かれていることは体験的に「なるほどな」と思えることが多々あります。
主に第十章「伝統を大切にする意義」
「そうなってるから、そうだんだ」という自明な事柄について「理屈じゃないんだ。感覚なんだ」と思いがちですが、ちゃんと根拠がある。
1人の人間の考えが正しいか否か、限界は明白ですし、今同居してる2、3世代の議論ですら限界があるのは理解しやすいと思います。
では何をもって正しさを判断するか。
日本の皇統とともにある歴史・文化は二千年以上の蓄積があります。
その中には失敗もあれば成功もある…その「より良い」ものの積み重ねが現代に生かされているわけで、1人の人間や数世代の考えよりは「より良い」と判断できる。
物事の正しさの判断にデータや学術的な理論が必要なのが現代ですが、二千年以上の積み重ねは膨大なデータの集積であり、科学が生まれた近世以降に勝るほどの根拠を持ってると思うのです。

個人の経験や感覚より歴史の叡智を重視することは自然なことと思います。
これを否定しようとするのが「革命」ですね。

日本人はケンカを避けようとします。
東日本大震災では略奪など起きず助け合い、津波で流された金庫から集められた20億以上のお金が持ち主にきちんと返されたエピソードなどなど、欧米を驚かせました。

お互いを慮り、契約書等なくても約束を守ろうとするのがボクら日本人です。
なぜそんな文化が出来上がったのか?

アニメの現場の出来事でも「なるほど」と思い当たることはあります。
よく打合せなどで「おまかせで」と言われることがあります
もちろん何度か組んだことがあるとか信頼の根拠は個人個人の積み重ねによるところもありますが、こういった会話の根底には「おまかせといっても全て自由にして良いわけじゃないよ」という暗黙了解が根拠となります。
つまり、シナリオや絵コンテを無視して良いという「おまかせ」ではないのです。
そこを勘違いしてはいけないことも自然と共有されていると思います。
最近はどうでしょう?
危うくなってるかもしれませんね。
勘違いが進めば「おまかせ」と言えなくなり、打ち合わせには内容の順守を約束する契約書にサインが求められる窮屈な現場になってしまうかもしれません…。

暗黙の了解、いちいち言わなくても共有されていることを守る。
これにはお互いの責任を自覚しあう重みもあります。
縛りを守る一種の不自由さもありますが、それは「自分の好きな様にやれれば良い」という利己的なことでなく、皆が意識を共有し少しずつ我慢を負担し合うことで結果的に満足をも共有し合いましょう、という心。
なかなか文書化しにくいことのように思えます。

経済では、15年間のデフレ不況にも関わらず日本の失業率は5%にも届かないレベルです。
安くしないと売れない、経費を削減しないと収益が得られないデフレ。
経費削減には人件費のカットが必要になり、失業者が増えてしまうわけですが。
日本政府や多くの企業はそんな状況でも(リストラや非正規雇用の問題などあるものの)失業率を低く抑えようと努力して来ました。
欧米では失業率10%以上の国が珍しくない中で、日本がデフレに耐えてきたことも驚くべきことだと言われています。
逆に言えば、民を大事する努力ゆえにデフレの恐怖が実感しにくい弊害もあるのでしょうが…。

「目に見えないこと」を大事にする文化は、明治以降、特に戦後は蔑ろにされる傾向が強まってます。
天皇を西洋の王や貴族のように捉えたりするのも一例でしょう。
そのような考えでは、歴史上一度も民衆によって倒された天皇がいない事、は証明出来ません。
そもそも天皇と民衆は対立関係ではない。
西洋に教えられるまでもなく、古来より日本型の「民主主義」が形成されてきたこともこの本から伺えると思います。

繰り返しになりますが、とても読みやすい本なので読むのが早い方なら2日もあれば読了できると思います。
読みやすさに相反して内容は濃く。
二千年の歴史や神々の個性から想像力を刺激されることと思います。

三橋貴明「目覚めよ! 日本経済と国防の教科書」

世界に通用する文化の発信。
それには個性を突き詰めること「日本らしさ」「日本とは」という命題に取り組む必要があると思う。


「国民経済と国防」というテーマの研究、書籍が非常に少なく、石沢芳次郎氏「国民経済と防衛問題(有信堂出版)」一冊のみということだそうです。
三橋貴明氏のブログから一部引用)「わが国の防衛論議はどちらからというと政治論であって、経済論としての防衛論議は、まことにすくない。このような傾向が一般化しているのは、わが国の従来の防衛論議が、主として自衛隊の合憲か違憲かの問題をめぐる憲法解釈論と、日米安保を堅持するか否かの争点を中心とした防衛体制論とを焦点として展開され、そのなかでいわば旧態依然とした理論闘争がくりかえされていたため、現実的な防衛論がそれほど発展しなかったという事情によるものと考えられる。」
国防というと実生活と無関係な、どこかフェンスの向こうで勝手にやってることのように思いがち。
しかし、現実には「その国の国民経済の」かたちに密接に関係した私達の大事な問題なのですね。

三橋貴明氏の手によって43年ぶりの「国民経済」「国防」の一冊が出ます。


目覚めよ!  日本経済と国防の教科書目覚めよ! 日本経済と国防の教科書
(2013/04/10)
三橋 貴明

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安倍政権による経済政策「三本の矢」
「一本目の矢」大胆な金融政策によって円高・株安に喘いでいた市場(デフレで得をしていた人達もいるらしいけどね)が一変、新聞など「3年数カ月ぶり」「4年ぶり」という文言とともに円安・株高、景気回復への期待を報道しています。
民主党政権の3年数ヶ月が名実ともに無きものになりそうで誠に、誠に、誠に、慶賀なことです。
それ以前の自民党の政策もデフレを解消できなかったが、第二次安倍政権はその経験を踏まえ反省し学んで今回の「三本の矢」を打ち立てたのです。

今後は「二本目の矢」機動的な財政政策で増えたお金をどう使っていくかが重要になってきます。

「三本目の矢」成長戦略は民間投資を促進する方法論を議論し具体策を出すこと。
竹中氏が提言している構造改革・規制緩和的な政策は小泉政権時、デフレ脱却が十分でない時点でやってしまった失敗例ですが景気が良くなれば益はあります。
一本目、二本目が十分軌道に乗ってから施行すべきと考えます。
それまでに具体策を議論するのは構わないしどんどんアイディアを出して準備を進めるのは良いと思います。

「クールジャパン推進会議」もその一つです。
報道からはアイディアの断片しか伝わって来ませんが、一回目の議事録ではとても興味深い議論がなされています。

クールジャパン推進会議:内閣官房
↑このページ内に議事録があります。第二回分は準備中。

議事録からは「日本とは何か」という命題が浮き上がってきています。
この命題に取り組むことは戦後レジームからの脱却の基礎でもあり。
軍事、憲法の個別論より先に、「日本とは」をまず問い直すことが必須だと思います。

「クールジャパン」コンテンツも同様です。
日本独自の文化とは? 個々のコンテンツがつながって広がっていくにはどんなアイディアが必要か。
ボクらの根っこ、地べたを再確認することから「クールジャパン」を考えなければ、良くて皮相的な流行、悪ければ方向を誤り萎ませてしまいかねません。

「国防」も「文化」も切り離した個別な議論でなく、「国民経済」の中でどう活かされるべきか議論する必用があるように思います。
政策作りは政治家や有識者なのかもしれないけれど、その議論を作り手が知らなくて良いわけはない。
作り手になりたいみなさんにも無縁な話ではないはずだと考えます。

アニメが描いているのは現実。
表現として絵を使い、異世界や超常な設定、メカやクリーチャーなどを借りているにすぎない。
アニメ制作者がアニメしか見ず、「アニメ世界」を現実と誤認して再生産(コピー)を繰り返せば自ずと閉塞し疲弊します。
それは受け手へ伝搬し、特定層にしか受けない市場過疎化のループを産んでしまう。
政治、経済、国防…どの分野にも同様の病理を見ることがあります。

最後に少々長いけど伊福部昭の言葉から。
『「(略)ヨーロッパの美観などという、我々の血液にないものに追随してもしようがないのではないか。岡潔さんは、民族の美観が確立するには五千年かかると書いているんですが、それはオーバーにしても、百年やそこらで美観は変わらない。日本もヨーロッパ化したというけれど、玄関で靴を脱ぐところかして、相変わらず日本があるので、自己に忠実であれば、どうしても民族的にならざるをえない影響を否定するほど潔癖なのも好きではないので、影響は受けても真似はやめたいと考えております」
しかしこの発言から、伊福部を偏狭な地域主義者とみるのは誤りだ。(略)なぜなら、民族の伝統を忘れたところに真の文化はなく、よってそこには、ポジティヴな成果が生まれる余地はないのである。
結局、話はこう落ち着く。「芸術はその民族の特殊性を通って共通の人間性に到達しなくてはならない
つまり、もし人間が民族の枠を超えられるとすれば、それは、民族性を追求しきり、その底の底に潜んでいるかもしれぬ人間共通の基盤にまで突き進めて、初めて可能というのが、伊福部の見解なのである。
(「伊福部昭の宇宙」第三章”民族意識とオスティナート”片山素秀 P69〜70)

先の石沢芳次郎氏の著書の
「一国の防衛力建設に要する防衛支出の規模や防衛産業の態様などが、その国の国民経済といかなる関係にあるか。あるいはいかなる関係を生み出しつつあるかなどの問題を究明することは、内外情勢の如何にかかわらず、きわめて重要なことであるはずである。
と対応しますね。

軸足をどこに置くか。
「日本らしさ」について、自信を持って再確認することから始めたい。


「神道と日本人」

いま山村明義さんの「神道と日本人」をメインに読んでます。
山村さんはお若い頃、漫画やアニメに憧れてその道に進むことを考えたこともあるそうで(勝手に)親近感をもっております(^_^)

神道(しんとう)というと何か特別なことのように思うかもしれない。
ボクもそんな風に思ってきた一人なのだけど、ずっと近い親しみの持てること。
社会全体に地下水のように流れつながっていることなのだ、ということがわかってきました。

神道には決まった教義があるわけでなく、古来より神職が行う祀り事、祓いや祈りによって伝えられている。
この本は、全国の神社へ取材し神職のみなさんの体験や思いを集積したもので、それによって「神道と日本人」のかたちを浮かび上がらせるものです。

目次でおおまかな内容がわかるかと思います。
・まえがき:神道の持つ普遍性と汎用性に気づいてもらうために
・第一章:日々の営みの中に根ざす誠心(まことごころ) 感謝の思い、祈る心
・第二章:自然を敬い、自然と共にあれ 「鎮守の森」に息づく日本の命脈
・第三章:聖なるものへ近づくために 「禊ぎ」にこめられた晴明正直
・第四章:災厄から蘇る転換点 禍事を逆転に導く「祓へ」の効用
・第五章:凛として、今を生き切る 武士道精神と魂の帰る場所
・第六章:海を越え、つながり合う 神道のもてなしの心と寛容性
・第七章:守りつつ、切り拓く 神職たちの新たなる試みと挑戦
・第八章:時空を超えて宿る神々 出雲、高千穂が紐解く神の座す場所
・第九章:古くて新しい日本のかたち 熊野と伊勢に秘められた蘇りの力
・第十章:崇高なる祈りの先にあるもの 宮中祭祀が映し出す永遠の祭り


神道と日本人 魂とこころの源を探して神道と日本人 魂とこころの源を探して
(2011/09/14)
山村 明義

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現在は第七章を読んでます。

ボクたちが自然にやっている仕草や生活習慣の中に、「察しと思いやり」や「おかげさま」の心に神道は存在している。
神道、神社がとても近くに寄り添っていること。
古いものでなく新しく生まれ変わり続けていることを垣間見ました。
「神職」といっても様々な生き方があり一様でないことを知りました。

神社には針葉樹だけでなく広葉樹を混ぜています。
保水や土質の保全、エコロジーや防災減災にも役立ってきたそうです。
都会に住んでいると神社のこんもりとした森林は心が休まります。
特に意識することなくやっていることの多くに、神道に根ざしたものがあるんですね。

また、生き方や社会のあり方としても
私利私欲の追求でなく滅私によって全体に奉仕することが回り回って自分にも益をもたらす。
遠回りでも、少しずつ。
これが日本人の成長や進歩への感覚の基礎だろうと納得出来ます。
欧米的…というか日本でも近頃喧しい「革命」「改革」という一気にいっぺんに変えようとすることとは違うものですね。
文化の育ち方が違う欧米のやり方を真似しても上手くはいかないものだと思う。

神々と土地と人。
古代ギリシャで生まれた「民主政」の思想の源泉と日本の神道は似ているな、と思いました。
ギリシャの民主政はその後「民主主義」へと形を変えフランス革命や第一次大戦によって勝者の論理に利用されながら歪に変化してしまった。
戦後日本にも押し寄せ、古来からの日本独自の「民主」観はずいぶんと変質してしまったように思います。
神道を戦争と結びつけ「国家神道」として退けた戦後の思想や教育の罪は重いと思う。

気の遠くなるような古来から修繕を繰り返して育てられた「ひとつながり」の日本の文化がたった十年かそこらで「革命」的にひっくり返るものではありません。
「命をいただく」感性や自然への畏れ、頭を垂れる他者への気遣いなど世界に誇って良いものです。
それが一度や二度の失敗で否定されるとしたら、そんな偏狭な社会が良いんだろうか?
欧米的なものでも取り込んで日本流にしてしまう強さをもう一度見直さないといけないかもね。


スペースシャトルの搭乗員が参拝に訪れる神社。
女性宮司のご苦労。
ハワイの神社。
東日本大震災を乗り越えようとする宮司。
神道の精神で大企業経営を両立する宮司。


読んでいくとボクらとそんなに大きな違いはないように思えてきます。
職責の違いはあっても根っこは同じだと。

アニメスタッフの待遇問題が時々俎上に上がりますが、多くのアニメ会社が中小零細で個人の集まりです。
アニメ業界というと広そうに見えますがそれほど大きくはない。
この業界(社会)が個々の利益の最大化や均等化、効率化よりも「より良い作品を作る」という目標でほとんど滅私奉公のような働き方を続けてきたのも(思い込みを覚悟の上で書けば)「神職」のように思えてきます。
アニメ業界には是正しなければならないことが山ほどありますが、根っこのところを置き忘れてビジネス論的にやっても良い結果は得られないでしょうし、簡単には答えは出ないでしょう。
問題は抱えていても、我々にしか出来ないことをやっていくのであれば、呑み込める範囲で呑み込む覚悟も必要かと思う。
その上で直すことを面倒がらずに修繕して。

出雲の博物館にあった たたら場や石細工、建築というのは産業ですよね。
神社を支える一人ひとりは職人、技術者、学者だったわけで、古来より神々の下で公的資本形成に、商売に、勤しんできたわけです。

アニメに限らず、「日本型経営」というものが神道と根を同じくする感性よって作られてきたのではないか。
神道、神職が特別なのではなく、特別になってしまった社会全体の方が歪んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら読み進めています。


安倍政権では
経済に始まって、憲法問題、国防、エネルギー問題など国の形を議論する機会が増えています。
これからもっと増えてくると思う。
安倍がどうだこうだと言う前に。
方法論の良し悪しを判断する前に。
ボクら日本人と日本(文化)の基礎を知らないと小手先のものになってしまいます。

まだまだ勉強中。


「みんなで学ぼう!ネット選挙」

希望日本研究所が行なっているネット講座。
「みんなで学ぼう!」シリーズ。
最新の「みんなで学ぼう!ネット選挙」のご紹介。
再生リストになってるので下の動画から全話見れます。

解説は所長の倉山満さんと研究員 原田謙介さん。
倉山さんは前半は質問に答える回のみ。後半の第4期から連投しています。


ネット選挙…正確には「ネット選挙活動」で、インターネットで投票を行うネット投票とは違います。
ここは誤解なきように。

構成は
第1、2期「ネット選挙の要旨とメリット・デメリット」
第3期「選挙の仕組み」
第4期「日本の選挙の歴史」
第5期「世界の政治の仕組み」

知ってるようで知らないことが多くて目からうろこが落ちまくりでした。
また、選挙を知ることによって政治と国民の関係とは?という基本的なこともわかってきます。
ここが一番、誤解され実感されていない大事なポイントであろうと思います。


公職選挙法が施行された当時、もちろんインターネットはなく。
当時の法律から解釈してインターネットの活用は禁止されてきたわけですが、さすがに時代にも実態にもそぐわないですね。
インターネットが普及して20年ほど経つのに一向に活用されない好況が続いて来ましたが、実は15年前から検討はされていたようで、近年、検討が活発化しており、安倍政権では夏の参院選での解禁を目指しているようです。

この動画では前半数期分は文字通りネット選挙について。
後半は各国の政治の仕組みが解説されていて興味深い。

日本では帝国憲法下と日本国憲法化でどう変わったか、変わってないかを解説しています。

一番驚いたのは(部分的には本で知ってたけど)アメリカ大統領が(平時では)「世界最弱の大統領」だということ。

詳しくは動画で!

「日銀人事とTPP交渉参加表明」

「日本銀行」
「日銀人事、すんなり了承 野党共闘ならず」日経新聞

総裁に黒田東彦氏
副総裁に岩田規久男氏・中曽宏氏

安倍首相の掲げる経済政策(アベノミクス)に賛同している黒田氏、岩田氏の決定は大きい。
大胆な金融緩和の実行で物価上昇率2%目標を実現して頂きたい。

日銀は、政府の政策目的に応じてベストな方法を採るのが仕事。
これが守られない危険を減らすには日銀法改正が必要。
これを主張する岩田氏が副総裁に入ったことは意味があると思う。

金融緩和でお金を刷り、財政出動で使い道を増やす。
市中にお金がグルグル回るようになればGDP(生産=消費・投資=所得)の増加につながる。
景気回復への一歩一歩に力強い下支えを得ました。


日銀の金融緩和・財政出動、震災復興と防災のための公共事業は早期にできる、やらねばらない政策です。
成長戦略と合わせて三本の矢と言われます。
経済成長力を取り戻し、国民が「がんばれば報われる」正常な状態、平穏で安定的な生活を取り戻し、国際競争力・国防・外交交渉力の強化につながれば言うことなし。


「TPP」
平成25年3月15日 安倍内閣総理大臣記者会見 | 首相官邸
上記リンクは、安倍首相のTPP交渉参加表明とその理由。動画と会見書き起こしです。

この交渉参加宣言と質疑応答から何らかの「結論」を受け取るのは難しい。
「交渉」参加の宣言なので不思議はない。相手があることだからね。


TPPのメリット・デメリットを天秤にかけ「交渉」に参加することで日本が有している固有の条件を世界に示していくこと、これを第一に考えれば理解できる内容だった。

「TPP参加」には依然 反対だけど。
衆院選の公約。自民党のTPP検討委員会が出した決議文を考えれば、交渉入りを決断した安倍首相を無下には批判できまい。

貿易協定はTPPだけでなくRCEP、FTAAPと東アジア関係のものが控える。
そこには中国、韓国が。
TPPの少ないメリットの中に日米同盟の強化。中国抑えこみ、というのがありました。
これが数多いデメリットを圧してでも「TPP参加」する意義なのかと疑問視されている。
安倍首相は自民党検討委員の決議から、国益に反しないよう条件を出していくと述べた。
日本に不利な条件を骨抜きに出来れば、このメリットも相対的に大きくなる可能性はある。

当初6つの条件のうち第1は「聖域なき関税撤廃は認められない」でした。
安倍首相の訪米で出された日米共同声明では「双方に聖域が存在し、聖域なき関税撤廃を前提としない旨を確認した」とある。
つまり、オバマ大統領に(日本が)聖域なき関税撤廃を求められないことを確認したわけで事前協議で一歩前進、条件が一つ減った。

日本の国益(国民の利益)を守るために出された残り5つの条件。
(1)自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない。
(2)国民皆保険制度を守る。
(3)食の安全安心の基準を守る。
(4)国の主権を損なうようなISD条項は合意しない。
(5)政府調達・金融サービス等は、わが国の特性を踏まえる。

これをどう守っていくか。


TPPはアメリカ側も日本と同様に農業団体は難色を示している。
議会には日本の参加を警戒している声もあり推進一色ではない。
先行交渉国も日本の参加でこれまでの交渉内容が変えられたり妥結が遅延することに警戒感がある。

今回の「交渉参加」はTPP参加が決まったわけじゃないので、これで日本はもう動けない、なんてことはない。
カナダ・メキシコがサインした「交渉内容の蒸し返し、途中離脱の禁止」念書は日本には届いていない。
交渉が決裂した場合の「離脱」も法的に可能なようだ。

交渉参加が現実的になって出てきた情報はまだまだやり様があることを示しています。


解釈・憶測の域を出ないのは自覚した上で、会見をこう聞きました。
「TPPのみで考えた場合の直接的なメリットは極めて少ないが、”交渉参加”によって条件を突きつけて間接的、将来的メリットをつかむ」
交渉を蹴る不利益より交渉で得る可能性をつかもう。
結果、離脱・不参加でも交渉に参加した上でなら理に反しない。
交渉の場が仮に一回でも、将来の貿易協定を見越して日本の立場を周知させることが「目的」なのでは…と。

何事も0/100はあり得ない。
デメリットが最小になり、メリットが大きくなるのなら反対し続ける理由はなくなります。
力強い交渉をお願いしたい。