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ものすご〜く久しぶりにトップ絵描きました。
フォトショで水彩塗りしたのも久しぶり〜。 楽しいねぇ。しかし色がワンパターンだな。 次は変えてみよう。 ジャン・シベリウス作曲
「カレリア」より序曲 作品10(1893年) 音詩「エン・サガ」作品9 (1892年 改訂1902年) 交響曲第5番 変ホ長調 作品82(1915年 改訂1916/19年) カレリアとエン・サガは青年期の作品。 第5交響曲は50歳の作。 3曲共最初に作曲されてから後に改訂されたものなのだけど、シベリウスはブルックナーと似てしばしば後になって自作を改訂する癖があった。 時には同じ素材を使った全く別な曲になることもあって、第5交響曲もその代表的な一つであろう。 撮りためたフィルムを編集して別な作品を作るのにも似ている気がする。 今回の演目は、そういったシベリウスの作曲過程を探るひとつのきっかけを提供するというコンセプトによっていて、一見普通でありながらかなりマニアックな選曲になっている。 しかし そんなことはどうでも良く 今回も第一回定期同様に第5交響曲のフィナーレの鳥の叫びが生々しく聴き取れたことが嬉しかった。この響きはアイノラ以外では聴くことが出来ない。 いや、一曲目からもううるうるしてしてしまってたまらんかった。 生で聴く音楽のすばらしさはどんなジャンルであろうと同じだと思うけど、今回もアイノラにはやられてしまったよ。 フィナーレの鳥の叫びは今この時に聴くと切実に聴こえて来る。 それは圧力に耐えかねた者の叫びがエベレストの麓から世界に向かって響き渡っているように。 ここんとこシベリウスの交響曲第5番、7番がヘビーローテーションだ。
何度聴いても飽きがこない。 同じ場所でも同じ景色が2度と見られないのと同様、同じCDの同じ信号が音になって出ているだけなのに。 何故こうも毎回新鮮に聴こえるんだろう。 シベリウスの音楽は「自然」に例えられることがあります。 北欧の森と湖、トナカイの佇む野原や白鳥が舞う空。 そうした風景を思い浮かべれば彼の音楽を体感するのに有効な手がかりになるのは確かでしょう。 しかし、彼の音楽は自然を「描写」したものではないですね。 むしろ自然そのもの、と言った方が良い。 だからキレイばかりじゃない。 都合の良いところを切り取ったダイジェストでも、自然ってすばらしい!という時の実を言えば人間賛美じゃないか、というものでもない。 不揃いで、不格好で、落ち着かない気分もそのまま音楽になっている。 森の中で方向間感覚を失って不安になる感覚や、木の幹のウロに何かが潜んでいる恐ろしさもそのまま音の中にひょっこり顔を出すのだ。 油断して、一つ間違えれば死ぬかもしれない感覚。 一方で人が森を壊しながら生きている現実もひっくるめてそのまま音にして放り出したような凶暴さすら感じることがある。 交響曲第5番は1915年から19年の作。 地球温暖化などだれも考えていなかった時代の音楽だ。 それなのに、人と自然が交わる時の幸・不幸といった感覚がうねるような音の連なりで聴こえて来る。 この曲のフィナーレを「自然讃歌」と解説しているラーナーノーツをよく目にするけど、ボクはほとんど同意できない。 第7番は本当にどう形容していいか分からない。 無心に聴けば聴くほど体験に近くなる音の連なり。 ただただ、滔々と音が流れているようにも聴こえる。 メロディだとか和声だとか、それらの音楽的・文学的な「意味」などまったく入り込む余地がない、純粋な音の連なり。 なんて言うと大げさだけど、風の音や自分の鼓動の音に意味などない訳で、それと同じことなのかもしれない。 こんな風に言ってしまうのは能天気かもしれないけど、ボクは学者じゃないしね。 今年は久々に、しんしんと降る雪の音、を聴くことが出来た。 その感動とシベリウスの音楽に動かされる心の動きというのは近いものがあるのでなかろうか。 それがどういうことなのかボクには分からない。 分からないままこれからも聴き続けるんだろう。 |