Appleのサーバが来月で使えなくなるのでイラストたちをflickrに移植中。
英語なので(機械翻訳でも)使い勝手がよく分からないのが難点だけどMacのアプリと連携しやすいので当面こちらでぼちぼちやって行きましょう。
Hiramatz's Photostream
英語なので(機械翻訳でも)使い勝手がよく分からないのが難点だけどMacのアプリと連携しやすいので当面こちらでぼちぼちやって行きましょう。
Hiramatz's Photostream
スポンサーサイト
Comment:0
Twitterで経済評論家の上念司さんが憲法議論における「新無効論者との対話」をまとめています。
追加があると更新してるようです。
ボクが5月3日に書いた憲法改正についての考え方は(中身に相違があるかもしれないけど)上念さんと近いものがあります。
彼が問題視しているのは「占領時代に押し付けられた憲法は無効である」という主張に固執するあまり「現行憲法を改正するのは押し付けを認めることになるからダメ。無効、破棄して帝国憲法に立ち返るべき。」という論を一歩も譲らず、却って憲法議論を阻害している。
結果的に現行憲法をずるずると使い続けようとする勢力に加担することになるのでは?ということ。
こういったことは他にも思い当たることがあります。
「脱原発」が全てに優先するという主張。
再稼働はどんな理由があろうと認めない。こういった「止める」に固執した主張も却って脱原発の実現や原発災害の危機回避から遠ざけてしまうのでは?と危惧します。
原発に関しては別の機会に書きたいので、このくらいにしますが。
身の回りの些細な出来事でも似たようなことはありますね。
妥結は案外難しいのです。
現行憲法の問題点をざっくり書くと
・占領時代の主権のない時にGHQ主導で作られたこと。
・自衛権に欠陥がある。
・権利の重視に偏って義務・責務の意識に欠けている。
・改正条項が厳しすぎて事実上改正不可能。
などです。
自民党の改正草案では、問題の「前文」が大幅に書き換えられています。
現行憲法の一部抜粋すると「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
目を瞑り耳を塞いでるかのようなこの前文に現行憲法全体の問題点が集約されています。
日本国民を主語にした独立国としての宣言でなければおかしいでしょう。
この前文が前提となって「陸海空軍とその他の戦力を保持しない。」となっています。集団的自衛権も持ってはいるが行使はできないのが現行憲法で不自然です。
元々軍隊を保持させないことを書いているので、その後(米国に)許されて組織した警察予備隊が自衛隊の前身。
軍隊が警察のような法律のもとで動かざるを得ないのは他国に例がなく国際協力で問題が多々あります。
改正草案ではハッキリと「国防軍」と明記しています。
(自然権としてある)自衛のための武力行使や集団的自衛権の行使、軍事法廷の設置は「普通の国」なら持っている権利です。
自民党の憲法草案は戦争を放棄する大前提と共に明記してありますが当然のことと考えます。
自分から戦争(武力恫喝)をしかけることはしない。日本に戦争(武力恫喝)をしかけて得があると思わせない。
これが9条改正の基本でしょう。
同胞の拉致を阻止できず、取り戻すことも交渉すらも出来ない現行9条は平和も日本国民の生命財産も守れていないのです。
また、現代の戦争が情報や経済を主戦場にしていながら軍事力の背景なしには発言力が得られないことも、この改正に重要な視点だと思う。
武力恫喝をしないのが基本ですが、背景として持っているか持ってないかでは全く違います。
国防に関しては、最初に書いた上念さんの危惧は「核武装」にあたります。
「核武装なしに国防を語るなかれ」と言った(日本では)極論を持ち出すことが国防論議、憲法改正論議を困難にしています。
「核兵器を持つことになるんなら憲法改正も危ないんじゃ?」という感覚的な反発が改正論議を萎ませることになる。
前にも書きましたが、持つかどうかを堂々議論できる状況になれば良いと考えます。
核武装議論は必要と言っただけで故・中川昭一さんは大バッシング受けた。
議論させない空気こそが日本を武力を背景に屈服させたい(国内外の)外国勢力に加担してしまうことになると思う。
社民党の福島さんなどは「そんな国はない」と頑なに信じているようです。
もはや事実を受け入れて思考できない状態のようですが、意図的か結果的かはわかりませんが、それで得をするのはアメリカ、中国、韓国、北朝鮮でしょうね。
福島さんは、権利の保証で現行の「公共の福祉を害しない」が改正草案で「公益や公の秩序を害しない」になってるのも問題だと言っていた。
その理由は公を国家権力と解釈して国民の自由を阻むことになる、と考えているようです。
そうでしょうか?
「福祉」は「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境。」と辞書にあります。
配慮は誰がするんでしょうか?
福祉政策は政治が決めてますよね?福祉などは時の政権によって変わってしまいます。
そんな価値観を根拠に国民の権利を規定して良いのか?というのが自民党の憲法草案の趣旨だと考えられます。
「公益や公の秩序」は政治も行政も司法も国民の意識も含んだ、その国の共有概念だと考えます。
現行憲法の記述にはキリスト教圏の契約概念があるのでは?と思えます。
日本には良くも悪くも契約概念が薄い。前にも書いたように共有できる考え方、信頼し合う心を持った国民性なので必要なかったんですよね。
改正草案は日本の文化に沿った日本人にとって自然な概念を文章化したものなのでしょう。
日本国民が長い歴史の中で育てた「公益や公の秩序」を害しない限り国民の活動が保証される、訳ですね。
国民の良識が試されます。責任も負うことになりますね。
でも、何か困ることがあるでしょうか?
他の改正草案の重要な点は
天皇を国の元首と明記する、こと。
改正条項を緩和して国民の総意が反映するようにすること。
ですね。
安倍晋三元首相がまず改正条件の緩和だけでも、と言っているのは実に現実的です。
全てを一気に改正できなければダメだ。
という頑固な姿勢も議論を停滞させ憲法改正を遅らせることになってしまいます。
主権回復から60年。
もう繰り返しはゴメンです。
ボクはこういう話を眉をひそめられようが書くことにしています。
「専門家の知識なしに語るんじゃない」という圧力も気にしない事にしています。
無論、出来る範囲で調べて間違いがないように気をつけてはいますが。
「正確さや専門知識」に固執するあまり「専門知識を持たない者は語るべからず」という論調が、疑問を口にしたり考えを表現する行為を阻害することにならないか?
結果的に議論そのものを封じることになる無言の圧力には同調できません。
この罠は、誰かが悪意を持って仕掛けるものじゃないのがほとんだと思います。
むしろ、自ら罠にはまってしまうのです。
それだけは避けねばと考えてます。
追加があると更新してるようです。
ボクが5月3日に書いた憲法改正についての考え方は(中身に相違があるかもしれないけど)上念さんと近いものがあります。
彼が問題視しているのは「占領時代に押し付けられた憲法は無効である」という主張に固執するあまり「現行憲法を改正するのは押し付けを認めることになるからダメ。無効、破棄して帝国憲法に立ち返るべき。」という論を一歩も譲らず、却って憲法議論を阻害している。
結果的に現行憲法をずるずると使い続けようとする勢力に加担することになるのでは?ということ。
こういったことは他にも思い当たることがあります。
「脱原発」が全てに優先するという主張。
再稼働はどんな理由があろうと認めない。こういった「止める」に固執した主張も却って脱原発の実現や原発災害の危機回避から遠ざけてしまうのでは?と危惧します。
原発に関しては別の機会に書きたいので、このくらいにしますが。
身の回りの些細な出来事でも似たようなことはありますね。
妥結は案外難しいのです。
現行憲法の問題点をざっくり書くと
・占領時代の主権のない時にGHQ主導で作られたこと。
・自衛権に欠陥がある。
・権利の重視に偏って義務・責務の意識に欠けている。
・改正条項が厳しすぎて事実上改正不可能。
などです。
自民党の改正草案では、問題の「前文」が大幅に書き換えられています。
現行憲法の一部抜粋すると「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
目を瞑り耳を塞いでるかのようなこの前文に現行憲法全体の問題点が集約されています。
日本国民を主語にした独立国としての宣言でなければおかしいでしょう。
この前文が前提となって「陸海空軍とその他の戦力を保持しない。」となっています。集団的自衛権も持ってはいるが行使はできないのが現行憲法で不自然です。
元々軍隊を保持させないことを書いているので、その後(米国に)許されて組織した警察予備隊が自衛隊の前身。
軍隊が警察のような法律のもとで動かざるを得ないのは他国に例がなく国際協力で問題が多々あります。
改正草案ではハッキリと「国防軍」と明記しています。
(自然権としてある)自衛のための武力行使や集団的自衛権の行使、軍事法廷の設置は「普通の国」なら持っている権利です。
自民党の憲法草案は戦争を放棄する大前提と共に明記してありますが当然のことと考えます。
自分から戦争(武力恫喝)をしかけることはしない。日本に戦争(武力恫喝)をしかけて得があると思わせない。
これが9条改正の基本でしょう。
同胞の拉致を阻止できず、取り戻すことも交渉すらも出来ない現行9条は平和も日本国民の生命財産も守れていないのです。
また、現代の戦争が情報や経済を主戦場にしていながら軍事力の背景なしには発言力が得られないことも、この改正に重要な視点だと思う。
武力恫喝をしないのが基本ですが、背景として持っているか持ってないかでは全く違います。
国防に関しては、最初に書いた上念さんの危惧は「核武装」にあたります。
「核武装なしに国防を語るなかれ」と言った(日本では)極論を持ち出すことが国防論議、憲法改正論議を困難にしています。
「核兵器を持つことになるんなら憲法改正も危ないんじゃ?」という感覚的な反発が改正論議を萎ませることになる。
前にも書きましたが、持つかどうかを堂々議論できる状況になれば良いと考えます。
核武装議論は必要と言っただけで故・中川昭一さんは大バッシング受けた。
議論させない空気こそが日本を武力を背景に屈服させたい(国内外の)外国勢力に加担してしまうことになると思う。
社民党の福島さんなどは「そんな国はない」と頑なに信じているようです。
もはや事実を受け入れて思考できない状態のようですが、意図的か結果的かはわかりませんが、それで得をするのはアメリカ、中国、韓国、北朝鮮でしょうね。
福島さんは、権利の保証で現行の「公共の福祉を害しない」が改正草案で「公益や公の秩序を害しない」になってるのも問題だと言っていた。
その理由は公を国家権力と解釈して国民の自由を阻むことになる、と考えているようです。
そうでしょうか?
「福祉」は「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境。」と辞書にあります。
配慮は誰がするんでしょうか?
福祉政策は政治が決めてますよね?福祉などは時の政権によって変わってしまいます。
そんな価値観を根拠に国民の権利を規定して良いのか?というのが自民党の憲法草案の趣旨だと考えられます。
「公益や公の秩序」は政治も行政も司法も国民の意識も含んだ、その国の共有概念だと考えます。
現行憲法の記述にはキリスト教圏の契約概念があるのでは?と思えます。
日本には良くも悪くも契約概念が薄い。前にも書いたように共有できる考え方、信頼し合う心を持った国民性なので必要なかったんですよね。
改正草案は日本の文化に沿った日本人にとって自然な概念を文章化したものなのでしょう。
日本国民が長い歴史の中で育てた「公益や公の秩序」を害しない限り国民の活動が保証される、訳ですね。
国民の良識が試されます。責任も負うことになりますね。
でも、何か困ることがあるでしょうか?
他の改正草案の重要な点は
天皇を国の元首と明記する、こと。
改正条項を緩和して国民の総意が反映するようにすること。
ですね。
安倍晋三元首相がまず改正条件の緩和だけでも、と言っているのは実に現実的です。
全てを一気に改正できなければダメだ。
という頑固な姿勢も議論を停滞させ憲法改正を遅らせることになってしまいます。
主権回復から60年。
もう繰り返しはゴメンです。
ボクはこういう話を眉をひそめられようが書くことにしています。
「専門家の知識なしに語るんじゃない」という圧力も気にしない事にしています。
無論、出来る範囲で調べて間違いがないように気をつけてはいますが。
「正確さや専門知識」に固執するあまり「専門知識を持たない者は語るべからず」という論調が、疑問を口にしたり考えを表現する行為を阻害することにならないか?
結果的に議論そのものを封じることになる無言の圧力には同調できません。
この罠は、誰かが悪意を持って仕掛けるものじゃないのがほとんだと思います。
むしろ、自ら罠にはまってしまうのです。
それだけは避けねばと考えてます。
Comment:0
しとしとと雨が振ってる間、友人に頼まれたイラストなど描きながら ふ…と窓の外を見たら 虹!
最初は窓から撮ろうとしたんだけど電柱が邪魔だったので2階の階段へ駆けていって撮ったのがこれ。
西の空には太陽が、東の空はまだ暗い雲と雨が残っていてくっきりとした副虹も見えました。
副虹は2回屈折するので色の並びが逆になる、というのを「今、そこにいる僕」の最終回の時に資料を調べていて知った。
虹って希望と絶望の狭間にあるようで好きです。
架け橋な感じ。
劇中でよく出してます (^^♪

最初は窓から撮ろうとしたんだけど電柱が邪魔だったので2階の階段へ駆けていって撮ったのがこれ。
西の空には太陽が、東の空はまだ暗い雲と雨が残っていてくっきりとした副虹も見えました。
副虹は2回屈折するので色の並びが逆になる、というのを「今、そこにいる僕」の最終回の時に資料を調べていて知った。
虹って希望と絶望の狭間にあるようで好きです。
架け橋な感じ。
劇中でよく出してます (^^♪

Comment:0
4月17日、石原東京都知事はヘリテージ財団の講演で尖閣諸島を都で買い取る宣言をした。
アメリカ、ワシントンでの講演だった。
ヘリテージ財団は保守系シンクタンクとして米国の政治にも影響力のある団体だそうだ。
この講演で取り上げたのは、環境問題・中東情勢・日本国憲法の問題・東アジア、中国の問題・核武装、軍事問題・尖閣諸島買取り宣言…となってます。
尖閣諸島の話もビックリしたけど、中東情勢において「キリスト教圏の国、米国はこの戦争には勝てない!」と明言したこと。
この話の趣旨は帝国主義時代、文化に対する介入で欧米社会(キリスト教圏)が何をしてきたか…ということ。
「ミッション」という映画をご存知でしょうか?
宣教師の南米での活動を描いた映画ですが、音楽を利用し現地の文化を否定して塗り替えていく様は見ていてとても気味の悪いものでした。映画は現地人と共に戦うことになる宣教師の葛藤をも描いている。
北米、アフリカや南米の占領に始まり中東、東南アジアに進出した欧米が、ソ連と睨み合う中国大陸に至って(大雑把に言えば)第2次大戦に拡大、その後米ソ冷戦、中東戦争へと流れていった。
この一連で歴史を見ないと日本の立場、日本の戦争と戦後も正確に把握できない、ということです。
欧州のナチス・ドイツと日本のアジアでの戦争は全く別種のものなのですが、敗戦後日本で行われた「日本は侵略国家だった」を喧伝するためにナチスと一緒くたにされ間違った認識を広めてしまったと考えざるを得ません。
冷戦時は西側の自由主義を正当化するために、かつての日本を過剰に悪者化し事実と違う喧伝が行われたのです。
いまだに、強い指導力を発揮しようとすると「ナチスみたい、ヒトラーみたい」と揶揄されるのはこうした「戦後教育」の賜物なのですね。
石原都知事講演の全てに通奏低音として「国家国民の主権と文化の独自性」が流れている。
かつての…今も続く欧米(キリスト教圏)の他国文化への傲慢な介入を指摘したわけです。
少々話し逸れますが
Twitterで猪瀬直樹東京副知事でつぶやいてるのが目に入った。関連した話なのでここに挟んでおきます。
「昭和天皇誕生日4月29日は東京裁判でA級戦犯を起訴した日、5月3日の憲法記念日は東京裁判開廷の日、そして東條処刑の日は…。『昭和16年夏の敗戦』の完結編です。尖閣諸島の寄付とともに連休の歴史的意味をいまこそ考えましょうね。」
東条英機処刑の日は12月23日で今上天皇の誕生日です。
日本の祝日にとても祝えない出来事をぶつけて来た連合国のやり方はあまりにもストレートで野蛮に映ります。
戦争から間のない時期の特殊な精神状況だったと考えても、これができる文化的背景は理解し難いものがあります。
…とはいえ「違い」は違いとして受け取らねばすぐにケンカになりますからね。
欧州の文化が科学や芸術で発明、発展してきた良い面もあります。
文化の違いを理解して付き合い方を考えるのが国際交流の基本だそうですし。
閑話休題
そして、この講演の中で尖閣買取り宣言に比較してあまり報道されないのは「日本国憲法の破棄」です。
日本に主権がなかった占領時に明治憲法を否定させGHQの草案を受け入れさせたことは重大な文化への介入で、これが恒久法であれば国際法違反となります。
GHQは占領時暫定憲法という考え方で「日本国憲法」を作らせたと考えれば納得がいきますが、これを日本人が主権回復後も護持するのは道理がありません。
当の米国も不思議に思っていたそうですが、当然でしょう。
主権回復60年の今年でなければ、石原都知事もあそこまで言ったかどうかわかりません。必要に迫られたんじゃないか?と想像します。民主党政権で統治機構の弱体化を国民が実感せざるを得ない今の状況でなければ、この講演がここまで大きく話題になることはなかったでしょう。
さて
今日は「憲法記念日」です。
「日本国憲法」が施行されて65年になるそうです。
日本の主権回復から60年なので、占領下で5年間使われていたことになります。
(改正の必要性は4月27日の日記に書きましたので詳細は省きます)
憲法論議には大まかに4通りあるんでしょうか?
1)改める必要はない
2)(9条は保持し)時代にそぐわない部分だけ改める必要あり
3)(9条含む)改正が必要
4)日本国憲法を破棄して新憲法の制定が必要
大まかに護憲と改憲に分けて両方の問題点を探ってみる。
昨日の「感覚と思考」を援用しますと
1)は感覚的に
4)は思考的に
過ぎると思ってます。
ボクは今の憲法は耐用限界をとっくに超えていて改める必要があると考えてます。
ただ、憲法学者倉山満氏の主張「占領時代に押し付けられたものだから破棄以外あり得ないし将来は日本国憲法など忘れてしまうくらいの逆洗脳が必要だ」は、その理由を説明した上であってもやや原理原則の「思考」に過ぎるかな?と。
(あえて極端な言い方で議論を喚起しようとしてるのかもしれないけどね)
事実の検証や論理は揺るぎ難い堅牢さを得られますが、理解に時間がかかる欠点があります。
「思考」を元にした主張は面倒臭がられて敬遠されやすいですしね…。
対して、いわゆる護憲派の主張は「感覚」的で、現実を無視していたり都合よく捻じ曲げたりする傾向があって既に事実を受け入れて修正ができない状態に陥っていると見て取れます。
4月30日に書いたチャンネル桜の討論でもそうですし、過去の憲法(9条)議論でも事実より感覚が勝った主張が散見されました。
「感覚」は感覚を呼び、一瞬で広がりやすいのですが間違いがあっても修正し難くなる欠点があります。
「感覚」のループにはまり込み、もはや自己修正できない状態に陥った主張には、同様に「感覚」優先の人たちにしか賛同されなくなってしまいます。
「感覚と思考」のバランスをとる方法はないでしょうか?
ボクがベターだと思うのは以下のような2段階の考え方です。
・日本国憲法の成立過程を事実を元に説明し、無効を宣言。
・65年間日本人が親しんできたことに鑑み現行憲法を下敷きに大改正し、新憲法とする。
無効宣言は独立国として不可欠だと思います。
英文を訳した現行憲法は日本語として分かりにいだけでなく不備も多いと言われます。
国民生活や国際社会とのバランスを考えれば現行憲法を元にした新憲法であっても納得がいきます。
白か黒かでないところを受け入れられるのが日本人の良いところでしょうし良いじゃないですか。
如何でしょう?
「感覚と思考」について考えて様々な討論を見たり普段の会話を反芻していると、特に日本人には感覚の自明性を疑わない国民性があるんじゃないかな?と気がつきます。
決して悪いことじゃないんだけどね。
アニメーターとして仕草を観察する時、日本人の身振り・表情の少なさもこの特徴が影響していると気が付きます。
外国人が顔の表情や手のひらを見せたり握手したりハグで敵意がないことを証明するのは、その必要があったからでしょう。
文化の違う民族が陸続きに交わる中で培われたものなのかな?と。
日本人同士にはそこまでしなくても感覚が共有できるので表現が控えめになる。
「止め」の会話が通用する日本のアニメはそういう風土でこそ育ってきたんでしょう。
なので、感覚が共有できない時にやっと使われるのが大きな表情や手振り身振りだと考えて、会話がうまくいかない時とか焦りの表現に使えたりする訳です。
察しと思いやり。
謙虚さ。
譲り合いの精神。
相手と感覚が共有できることを前提にした特徴です。
日本人の美徳だと思いますが、外国には通用しないことなのも受け入れざるを得ません。
そして、感覚の共有ができないと一転して拒絶反応を示してしまう欠点もある。と。
こういう政治的な話(に限らないけど)ネットでよくある「レッテル貼り」も感覚を刺激するものですね。
感覚で賛同を得ようとしたり拒絶反応を起こさせ思考を封じるのに便利です。
いちいち例示しませんが、掲示板やTwitterのような短文形式では印象付けを狙うためにレッテル貼りが起こりやすい。
こういうのに乗りたくないし、自分はやらないよう心がけねばと思います。
このブログのように長々と書かないまでも、必ず5W1Hのうち「なぜ?・どのように?」だけでも思考して書くように。
「日本国憲法は平和憲法だ」
「憲法9条を改正すると日本が戦争をする国になる」
「改憲論者は右翼である」
長らく憲法改正論議に貼られてきたこのレッテルをそろそろ剥がさねばいけません。
自民党が「日本国憲法改正草案」を出しました。
現行憲法との対照表記になってるのでわかりやすい。
他にもたちあがれ日本とみんなの党が草案を出しています。
5月3日が押し頂いた「憲法記念日」じゃなく、別な記念日を自分たちで決められることを祈って。
アメリカ、ワシントンでの講演だった。
ヘリテージ財団は保守系シンクタンクとして米国の政治にも影響力のある団体だそうだ。
この講演で取り上げたのは、環境問題・中東情勢・日本国憲法の問題・東アジア、中国の問題・核武装、軍事問題・尖閣諸島買取り宣言…となってます。
尖閣諸島の話もビックリしたけど、中東情勢において「キリスト教圏の国、米国はこの戦争には勝てない!」と明言したこと。
この話の趣旨は帝国主義時代、文化に対する介入で欧米社会(キリスト教圏)が何をしてきたか…ということ。
「ミッション」という映画をご存知でしょうか?
宣教師の南米での活動を描いた映画ですが、音楽を利用し現地の文化を否定して塗り替えていく様は見ていてとても気味の悪いものでした。映画は現地人と共に戦うことになる宣教師の葛藤をも描いている。
北米、アフリカや南米の占領に始まり中東、東南アジアに進出した欧米が、ソ連と睨み合う中国大陸に至って(大雑把に言えば)第2次大戦に拡大、その後米ソ冷戦、中東戦争へと流れていった。
この一連で歴史を見ないと日本の立場、日本の戦争と戦後も正確に把握できない、ということです。
欧州のナチス・ドイツと日本のアジアでの戦争は全く別種のものなのですが、敗戦後日本で行われた「日本は侵略国家だった」を喧伝するためにナチスと一緒くたにされ間違った認識を広めてしまったと考えざるを得ません。
冷戦時は西側の自由主義を正当化するために、かつての日本を過剰に悪者化し事実と違う喧伝が行われたのです。
いまだに、強い指導力を発揮しようとすると「ナチスみたい、ヒトラーみたい」と揶揄されるのはこうした「戦後教育」の賜物なのですね。
石原都知事講演の全てに通奏低音として「国家国民の主権と文化の独自性」が流れている。
かつての…今も続く欧米(キリスト教圏)の他国文化への傲慢な介入を指摘したわけです。
少々話し逸れますが
Twitterで猪瀬直樹東京副知事でつぶやいてるのが目に入った。関連した話なのでここに挟んでおきます。
「昭和天皇誕生日4月29日は東京裁判でA級戦犯を起訴した日、5月3日の憲法記念日は東京裁判開廷の日、そして東條処刑の日は…。『昭和16年夏の敗戦』の完結編です。尖閣諸島の寄付とともに連休の歴史的意味をいまこそ考えましょうね。」
東条英機処刑の日は12月23日で今上天皇の誕生日です。
日本の祝日にとても祝えない出来事をぶつけて来た連合国のやり方はあまりにもストレートで野蛮に映ります。
戦争から間のない時期の特殊な精神状況だったと考えても、これができる文化的背景は理解し難いものがあります。
…とはいえ「違い」は違いとして受け取らねばすぐにケンカになりますからね。
欧州の文化が科学や芸術で発明、発展してきた良い面もあります。
文化の違いを理解して付き合い方を考えるのが国際交流の基本だそうですし。
閑話休題
そして、この講演の中で尖閣買取り宣言に比較してあまり報道されないのは「日本国憲法の破棄」です。
日本に主権がなかった占領時に明治憲法を否定させGHQの草案を受け入れさせたことは重大な文化への介入で、これが恒久法であれば国際法違反となります。
GHQは占領時暫定憲法という考え方で「日本国憲法」を作らせたと考えれば納得がいきますが、これを日本人が主権回復後も護持するのは道理がありません。
当の米国も不思議に思っていたそうですが、当然でしょう。
主権回復60年の今年でなければ、石原都知事もあそこまで言ったかどうかわかりません。必要に迫られたんじゃないか?と想像します。民主党政権で統治機構の弱体化を国民が実感せざるを得ない今の状況でなければ、この講演がここまで大きく話題になることはなかったでしょう。
さて
今日は「憲法記念日」です。
「日本国憲法」が施行されて65年になるそうです。
日本の主権回復から60年なので、占領下で5年間使われていたことになります。
(改正の必要性は4月27日の日記に書きましたので詳細は省きます)
憲法論議には大まかに4通りあるんでしょうか?
1)改める必要はない
2)(9条は保持し)時代にそぐわない部分だけ改める必要あり
3)(9条含む)改正が必要
4)日本国憲法を破棄して新憲法の制定が必要
大まかに護憲と改憲に分けて両方の問題点を探ってみる。
昨日の「感覚と思考」を援用しますと
1)は感覚的に
4)は思考的に
過ぎると思ってます。
ボクは今の憲法は耐用限界をとっくに超えていて改める必要があると考えてます。
ただ、憲法学者倉山満氏の主張「占領時代に押し付けられたものだから破棄以外あり得ないし将来は日本国憲法など忘れてしまうくらいの逆洗脳が必要だ」は、その理由を説明した上であってもやや原理原則の「思考」に過ぎるかな?と。
(あえて極端な言い方で議論を喚起しようとしてるのかもしれないけどね)
事実の検証や論理は揺るぎ難い堅牢さを得られますが、理解に時間がかかる欠点があります。
「思考」を元にした主張は面倒臭がられて敬遠されやすいですしね…。
対して、いわゆる護憲派の主張は「感覚」的で、現実を無視していたり都合よく捻じ曲げたりする傾向があって既に事実を受け入れて修正ができない状態に陥っていると見て取れます。
4月30日に書いたチャンネル桜の討論でもそうですし、過去の憲法(9条)議論でも事実より感覚が勝った主張が散見されました。
「感覚」は感覚を呼び、一瞬で広がりやすいのですが間違いがあっても修正し難くなる欠点があります。
「感覚」のループにはまり込み、もはや自己修正できない状態に陥った主張には、同様に「感覚」優先の人たちにしか賛同されなくなってしまいます。
「感覚と思考」のバランスをとる方法はないでしょうか?
ボクがベターだと思うのは以下のような2段階の考え方です。
・日本国憲法の成立過程を事実を元に説明し、無効を宣言。
・65年間日本人が親しんできたことに鑑み現行憲法を下敷きに大改正し、新憲法とする。
無効宣言は独立国として不可欠だと思います。
英文を訳した現行憲法は日本語として分かりにいだけでなく不備も多いと言われます。
国民生活や国際社会とのバランスを考えれば現行憲法を元にした新憲法であっても納得がいきます。
白か黒かでないところを受け入れられるのが日本人の良いところでしょうし良いじゃないですか。
如何でしょう?
「感覚と思考」について考えて様々な討論を見たり普段の会話を反芻していると、特に日本人には感覚の自明性を疑わない国民性があるんじゃないかな?と気がつきます。
決して悪いことじゃないんだけどね。
アニメーターとして仕草を観察する時、日本人の身振り・表情の少なさもこの特徴が影響していると気が付きます。
外国人が顔の表情や手のひらを見せたり握手したりハグで敵意がないことを証明するのは、その必要があったからでしょう。
文化の違う民族が陸続きに交わる中で培われたものなのかな?と。
日本人同士にはそこまでしなくても感覚が共有できるので表現が控えめになる。
「止め」の会話が通用する日本のアニメはそういう風土でこそ育ってきたんでしょう。
なので、感覚が共有できない時にやっと使われるのが大きな表情や手振り身振りだと考えて、会話がうまくいかない時とか焦りの表現に使えたりする訳です。
察しと思いやり。
謙虚さ。
譲り合いの精神。
相手と感覚が共有できることを前提にした特徴です。
日本人の美徳だと思いますが、外国には通用しないことなのも受け入れざるを得ません。
そして、感覚の共有ができないと一転して拒絶反応を示してしまう欠点もある。と。
こういう政治的な話(に限らないけど)ネットでよくある「レッテル貼り」も感覚を刺激するものですね。
感覚で賛同を得ようとしたり拒絶反応を起こさせ思考を封じるのに便利です。
いちいち例示しませんが、掲示板やTwitterのような短文形式では印象付けを狙うためにレッテル貼りが起こりやすい。
こういうのに乗りたくないし、自分はやらないよう心がけねばと思います。
このブログのように長々と書かないまでも、必ず5W1Hのうち「なぜ?・どのように?」だけでも思考して書くように。
「日本国憲法は平和憲法だ」
「憲法9条を改正すると日本が戦争をする国になる」
「改憲論者は右翼である」
長らく憲法改正論議に貼られてきたこのレッテルをそろそろ剥がさねばいけません。
自民党が「日本国憲法改正草案」を出しました。
現行憲法との対照表記になってるのでわかりやすい。
他にもたちあがれ日本とみんなの党が草案を出しています。
5月3日が押し頂いた「憲法記念日」じゃなく、別な記念日を自分たちで決められることを祈って。
Comment:0
一種の演出論だけど「政治・社会カテゴリー」で書いてるのは「私と公」のテーマを含んでいるからです。
たぶん続編を近々書きます。
さて
大好きな、サム・ライミ監督の「スパイダーマン 2」にこんなセリフがあります。(以下ネタバレ有り)
「僕は、気持ちに騙された」
ピーター・パーカーが生身の人間としての生き方、MJとの恋に真剣になってスパイダーマンの力が弱まってしまいます。悩んだ末ついに一人の男の人生を選び、スパイダーマンを辞める決意をする。
しかしドクター・オクトパスの身勝手な暴虐に、亡くなったおじさんの遺言「大いなる力には大いなる責任が伴う」を自覚します。
ドク・オク自身が科学者だった時に言う「崇高な目的のためには自分を諦めなければいけない時もある(うろ覚え)」もおじさんと同じことを言っていたのです。
パーカーは「気持ちに騙された」と利己的な心を否定し、MJを断ってスパイダーマンになる。
ドク・オクは科学者の使命を思い出し暴走した装置を身を捨てて止める、
「スパイダーマン 2」のテーマは二人の男の利己的な考えを巡る対決なので、戦っている相手は自分の中の理性、と言って良い。
「公」と「私」の対比でもありましょう。
要約すればこうなります。
スパイダーマンことピーター・パーカーは大いなる力と自分の夢との戦いで悩む。自分の夢を肥大化させた怪物ドクター・オクトパスと対決・勝利することで、大いなる力と夢の両立をも勝ち取る。
パーカーの学業や恋を大事にしたい気持ち・感覚は間違いではない。
でも、たまたまとは言え得てしまった大いなる力(公)と「感覚」的な恋(私)との間で「思考」が発生し、最終的に恋(私)の方を捨てるんです。
「えええ?両立すればいいのに~~」という思いは一種のサスペンスとなって最後のオチに繋がっていきます。
見事な構成ですね。
「感覚」と「思考」をバランスよく使うこと。そのどちらかを増長させ操られてはいけない。
この映画の理性的なテーマはここにある、とボクは観ました。
アメコミヒーローの中ではスパイダーマンが一番好きなのはこの辺りですね。
一本目からしてこのテーマは一貫していますが、二本目はよりハッキリしていてキャラクターの魅力とも有機的につながっていて素晴らしいと思う。
「気持ちに騙された」
気持ち、は「感覚」の一種…別な言い方だとも言えますね。
自分に沸き起こる気持ち「感覚」はウソをつかないし騙すこともない。
時がたって変わることはあってもウソではないよね。
なので、「感覚」を大事にするし、最優先する場合もあります。
「思考」から生まれる論理より大事だという意見もあるでしょう。
しかし、行き過ぎれば騙されてしまうんです。
なぜなら「感覚」は自明すぎて論証できないんですよね。
たとえば「イマイチ」「まずい」と人が言うラーメン屋でも自分が「うまい」と思ったら美味いんですよ。
細かいこと言えば麺とスープのバランスが…云々とあるわけですが。。。
表現として「感覚」をストレートに出して
「こんなうまいラーメン食べたことない!」
…と言えばシンプルでわかりやすいし聞いた人にも「感覚」で伝わります。感覚の連鎖で行列ができたりします。
ワンクッション置いて
「すごくうまい!でも薄口好きな人には合わないかもね」
…と言うと濃口かな?とどんな味か想像する「思考」が発動します。が、理屈っぽい印象が否めないと広がりにくいでしょう。
「感覚」とは「私」と言い換えることも可能かと思います。
好き…嫌い…心地良い…気持ち悪い…安心…怖い…感覚を疑われると自分を否定されたようで不快に思います。
感覚の自明さは受け手の中で再生産され積み重なって広がっていき空気を作り出し易い。
ある「感覚」が集団化すると最早「思考」の入り込む余地はなくなり「思考」による修正が不可能になってしまいます。
行き過ぎると「騙される」のです。
「思考」は「公」を含みます。
思考するには自分だけでなく客観的なデータや事実の積み重ねが必要になりますから、より多くの人が確からしさを認めることができる。
「思考」の過程で間違いが指摘されても自分から距離を置いた積み重ねであればいたずらに不快になることもなく修正できます。
しかし、こちらは行き過ぎると、自分のない面白みのない意見になり易い。
行動(表現など)の間違いを防ぐためには「感覚」と「思考」を会話させチェックすることが大事だと考えます。
ボクのような仕事をしてると、「感覚」と「思考」の優先順位を常に意識しなければいけない。
時と場合によっては「感覚」を押し出すこともあり、あえて「思考」を採ることもあり。
作品を作る時、演出をする時不可欠なのは、ヒトコトで言えるかどうかです。
文章なら1行~3行で要約できない物語はお客さんに伝わらない、と言われます。
「感覚と思考」の力が試されます。
好きな映画を短く要約する訓練は演出を志す人には有効だと思いますよ。
演出としては、まずは「感覚」で伝わらなければ失敗です。
”読後感”の中で作品を反芻して「思考」を発動されても揺るがない、むしろ楽しい、スルメのようなものが作れれば一番良い。
たぶん続編を近々書きます。
さて
大好きな、サム・ライミ監督の「スパイダーマン 2」にこんなセリフがあります。(以下ネタバレ有り)
「僕は、気持ちに騙された」
ピーター・パーカーが生身の人間としての生き方、MJとの恋に真剣になってスパイダーマンの力が弱まってしまいます。悩んだ末ついに一人の男の人生を選び、スパイダーマンを辞める決意をする。
しかしドクター・オクトパスの身勝手な暴虐に、亡くなったおじさんの遺言「大いなる力には大いなる責任が伴う」を自覚します。
ドク・オク自身が科学者だった時に言う「崇高な目的のためには自分を諦めなければいけない時もある(うろ覚え)」もおじさんと同じことを言っていたのです。
パーカーは「気持ちに騙された」と利己的な心を否定し、MJを断ってスパイダーマンになる。
ドク・オクは科学者の使命を思い出し暴走した装置を身を捨てて止める、
「スパイダーマン 2」のテーマは二人の男の利己的な考えを巡る対決なので、戦っている相手は自分の中の理性、と言って良い。
「公」と「私」の対比でもありましょう。
要約すればこうなります。
スパイダーマンことピーター・パーカーは大いなる力と自分の夢との戦いで悩む。自分の夢を肥大化させた怪物ドクター・オクトパスと対決・勝利することで、大いなる力と夢の両立をも勝ち取る。
パーカーの学業や恋を大事にしたい気持ち・感覚は間違いではない。
でも、たまたまとは言え得てしまった大いなる力(公)と「感覚」的な恋(私)との間で「思考」が発生し、最終的に恋(私)の方を捨てるんです。
「えええ?両立すればいいのに~~」という思いは一種のサスペンスとなって最後のオチに繋がっていきます。
見事な構成ですね。
「感覚」と「思考」をバランスよく使うこと。そのどちらかを増長させ操られてはいけない。
この映画の理性的なテーマはここにある、とボクは観ました。
アメコミヒーローの中ではスパイダーマンが一番好きなのはこの辺りですね。
一本目からしてこのテーマは一貫していますが、二本目はよりハッキリしていてキャラクターの魅力とも有機的につながっていて素晴らしいと思う。
「気持ちに騙された」
気持ち、は「感覚」の一種…別な言い方だとも言えますね。
自分に沸き起こる気持ち「感覚」はウソをつかないし騙すこともない。
時がたって変わることはあってもウソではないよね。
なので、「感覚」を大事にするし、最優先する場合もあります。
「思考」から生まれる論理より大事だという意見もあるでしょう。
しかし、行き過ぎれば騙されてしまうんです。
なぜなら「感覚」は自明すぎて論証できないんですよね。
たとえば「イマイチ」「まずい」と人が言うラーメン屋でも自分が「うまい」と思ったら美味いんですよ。
細かいこと言えば麺とスープのバランスが…云々とあるわけですが。。。
表現として「感覚」をストレートに出して
「こんなうまいラーメン食べたことない!」
…と言えばシンプルでわかりやすいし聞いた人にも「感覚」で伝わります。感覚の連鎖で行列ができたりします。
ワンクッション置いて
「すごくうまい!でも薄口好きな人には合わないかもね」
…と言うと濃口かな?とどんな味か想像する「思考」が発動します。が、理屈っぽい印象が否めないと広がりにくいでしょう。
「感覚」とは「私」と言い換えることも可能かと思います。
好き…嫌い…心地良い…気持ち悪い…安心…怖い…感覚を疑われると自分を否定されたようで不快に思います。
感覚の自明さは受け手の中で再生産され積み重なって広がっていき空気を作り出し易い。
ある「感覚」が集団化すると最早「思考」の入り込む余地はなくなり「思考」による修正が不可能になってしまいます。
行き過ぎると「騙される」のです。
「思考」は「公」を含みます。
思考するには自分だけでなく客観的なデータや事実の積み重ねが必要になりますから、より多くの人が確からしさを認めることができる。
「思考」の過程で間違いが指摘されても自分から距離を置いた積み重ねであればいたずらに不快になることもなく修正できます。
しかし、こちらは行き過ぎると、自分のない面白みのない意見になり易い。
行動(表現など)の間違いを防ぐためには「感覚」と「思考」を会話させチェックすることが大事だと考えます。
ボクのような仕事をしてると、「感覚」と「思考」の優先順位を常に意識しなければいけない。
時と場合によっては「感覚」を押し出すこともあり、あえて「思考」を採ることもあり。
作品を作る時、演出をする時不可欠なのは、ヒトコトで言えるかどうかです。
文章なら1行~3行で要約できない物語はお客さんに伝わらない、と言われます。
「感覚と思考」の力が試されます。
好きな映画を短く要約する訓練は演出を志す人には有効だと思いますよ。
演出としては、まずは「感覚」で伝わらなければ失敗です。
”読後感”の中で作品を反芻して「思考」を発動されても揺るがない、むしろ楽しい、スルメのようなものが作れれば一番良い。
Comment:0