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2013
05.26

「前半戦」

Category: ひとりごと
あっ と言う間に2013年も半分近く過ぎようとしていますね。
いつまでも寒い日が続く、と思ったら突然暑くなり、また涼しくなったりで先週は風邪を引いてしまいました。

今回は特にテーマも設けず箸休め的に書いてます。

調べてみると来年でアニメーター生活30年になるようです。
動画:1984年〜 劇場版「レンズマン」「ゴッドマジンガー」から「AKIRA」まで
原画:1988年〜 「ミスター味っ子」53話から

動画を何年やってたか?という質問に「5年」と答えてましたけど正確には「4年」ですね。
近年からするとやはり長いんでしょうけども。

原画はずいぶん長くやってるようだけど飽きませんねー。
作画監督や演出もまだ充分やれてるとは言い難い。
キャラクターデザインには「旬」というものがあると思うので出会いがどんどん減っていきます。
しかし、感覚としてはまだ「前半戦」を越えたとこって感じでしょうか。

ヱヴァ新劇場版にアニメーターとして参加してからは、長いスパンで拘束されるためにテレビの仕事から遠くなっていました。
知り合いからお誘いがあれば状況を見て参加しておりますが、スケジュールの厳しい仕事は常に妥協との戦いが展開するのでスピード感と緊張感の維持が求められ、熱い風呂に入ったような感覚になります。
若い時分なら熱さを感じなかっただろうになぁ〜と思いますが、適温も放っておけばぬるま湯になりますからね、意識的に維持しないとぬるくなったことに気が付けなくなってしまう。
それは避けたいものです。

来年は画集も作れたら良いな、と考えてます。


忙しくなる前に、と今年は正月前半に伊勢や出雲を旅してました。
明日から縁あって海外に行ってきます。
初めての東南アジアへ。
自分への投資です。どんな形になるのか全く予定はないんですが、まずは楽しんで来ようと思います。


漠然と大きくは予定が詰まってて、そろそろ活動限界も先が見えてきた。
折り返し点はとっくに過ぎてるんだろうけど、足らないことが多すぎる。


ま、難しく考えても仕方ないので一杯やりに街に出ようか。


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2013
05.19

『ヒッチコック「逃走迷路」』

Category: ひとりごと
ヒッチコック ブルーレイ コレクションが出たので早速購入。
「ハリーの災難」「鳥」「逃走迷路」を観ましたが映像がきれいです。
音響もかなり解像度が上がっていて素晴らしいと思います。

ヒッチコック監督の「逃走迷路」
1942年の作品。
演出テクニックについてはいくらでも称賛や解説がありそうなので、この作品で特徴的かつ避けて語れない政治的表現について書いてみる。

「風と共に去りぬ」で有名なプロデューサー、セルズニックの招きで渡米して5作目。
セルズニックは資金難でヒッチコックを他の会社へ貸し出したりしていたそうで、この映画はフランク・ロイド・プロダクション製作になっています。

新天地アメリカで、しかも戦争中の渡米だったので航行中はドイツ軍の攻撃を警戒しながらで相当な緊張感だったようだ。
戦前戦中の映画は少々の政治色が入っているけども、ヒッチの主観がどれほど反映しているのかは正直分からない。

最初の脚本会議の時、真珠湾攻撃の一報が飛び込んできたそうです。
そういう時代のアメリカ映画です。

あらすじ
第二次大戦中。軍需工場で働くバリーは破壊工作の嫌疑を受ける。
潔白を証明するために彼だけが目撃した犯人フライを探すため警察を振りきってしまう。
引くに引けない状況で、途中知り合った美女パットを巻き込んでの逃走劇。


「無実の罪を背負った主人公が身の潔白を証明するために敵と戦う」
シンプルな筋立てで、この種の映画のお手本のような作品です。
スピルバーグの「マイノリティ・リポート」はヒッチコックへの見事なオマージュだと思う。

こういう状況設定は人物が能動的に動くので楽ですが、あくまで手法であって目的(映画そのもの)は別にあります。
状況や人物設定のおもしろさなら映像でなくてもできますからね。
目的と手法を混同すると結果を誤るのは、政治経済の話(だけでなく凡そ全ての人の営み)と同じなのです。

ヒッチコックの真骨頂は映像による多層的な人間描写・心理描写にあり「映画」そのものです。
テーマ性に左右されず、時代を超える表現に溢れていると思います。

偏らない表現と皮肉なユーモア

戦時中(アメリカ参戦前も含めて)の映画「逃走迷路」「海外特派員」「救命艇」の3本では連合国や民主主義の論理を一方的に賛美することはない。
主人公が正義に燃えていたとしても敵側の論理にも説得力をもたせようとしているところは誠実だと思う。

ヒッチ作品の全体的な特徴として、敵役を魅力的に描く点があります。
この映画でも、首謀者トビンの住処はプール付きの立派な農園。
トビンはプールで孫と遊ぶ姿が初登場で、理知的でユーモアを理解し孫を可愛がる紳士として描かれています。
後半のアジトも豪華な邸宅で、家主は表向きチャリティも行う富豪だが、バリーの企てで自分の宝石をオークションに出さなきゃいけなくなり、本当は嫌なのを押し殺して笑顔を作るところが可笑しい。
手下もみなきちんとした身なりな紳士で家族の話をしたり自己愛っぷりを語ったり余裕たっぷりに描かれています。

悪い奴は見た目や素行からして悪そう、ていう一方的な描き方はしません。
主人公バリーと、直接対決するフライの二人はどこか孤立していてギラギラしている。
敵味方に別れた二人はどこか双子のように描かれてると思えます。

利己主義の明確さ と 相互信頼の脆弱さ

「逃走迷路」には敵・味方に印象的な表現が多々あります。
敵側
主人公二人が邸宅から逃げ出そうとダンスを楽しむ人々に紛れ込むシーン。
人々に「ここは工作員の巣窟だ」と訴えても誰も信用せずダンスに夢中。
頭のおかしいヤツ扱いを受けてしまい、通報されてしまう。
真実を訴えても考えもせず排除しようとする。場の空気に流される大衆が敵に加担してしまう。
まさに「バカ:スパイ=9:1の法則」
一握りのスパイによって大衆が扇動され、真実が受け入れられなくなる恐怖だ。
日米はコミンテルンの謀略にハメられ対立を止められず開戦してしまいました。さすがにヒッチや脚本家がそれを知ってたとは思えませんが、戦争の真理を捉えていたのかもしれません。
(21世紀の現代日本にも同じ問題はしっかりありますけどね。)
敵側は私利私欲のためにとりあえずまとまってる集団に過ぎないのです。
…まるで民主党のようですね。

バリーは逃げられずパットとも引き離されてトビンの元に戻されます。
トビンは大きなソファーにゆったりと座って持論を語る。
彼は「民主主義は合理的ではない」「大衆は愚かだ」と言い全体主義の優越性を説くのだが、全体主義を信奉しているのではなく、自分の優雅な生活の維持のため利用しているに過ぎないところがリアルだ。
敵側はそれぞれが自分の利益を求めていて祖国に愛がないのだ。
このシーン。トビンのカットは全て引き絵で、堂々とした威圧感がありますが、ライティングの演出でどこか淋しげな哀れな感じに見えます。

トビンはバリーを処分するよう命じて社交場へ戻ります。
そこではバリーを陥れるのに加担した大衆が、何も知らず楽しそうにクルクル踊っている。
この映画の最も恐ろしいシーンだ。

味方側
「民主主義 対 全体主義」の構造は登場する多彩な人物によって描かれています。
バリーの逃走を手助けするトラックの運ちゃん、目の不自由な老人、サーカス一座の奇人たち。
彼らは様々な民族、個人差、格差など多様な人々を象徴する人たちだ。
バリーとパットはサーカス一座のトレーラーへ逃げ込む。検問で止められ警察が近づいてくるピンチ。
バリーは事の次第を説明するのだが、警察に突き出すか匿うかで意見が割れてしまう。
「ここは民主主義で」と奇人たちのリーダー「骸骨男」の提案で議論し採決することに。
最後の一票を担った「ひげ女」は二人が信じあっていることを「正義」の根拠として匿う方に賛同します。
最後まで「突き出してしまえ!」と主張してた「小さい独裁者」は発言を封じられてしまう。
緊急時にはリーダーの決断に従わなければ大変なことになりますからね。
ここも単なる美談、民主主義の賛美になっていない。
彼らは彼らの願望でバリーたちを見ているし、ヒロインのはずのパットはバリーを何度も疑ってしまう。
この時も工作員の疑いを捨てておらず仕方なくバリーに従っただけなのだが、ひげ女の純真さに自分の小ささを恥じてバリーを信じることになる。

社会から排除されてきた奇人たちが「何が正しいか」を見ず知らずの者のために真剣に考え選択する。
私利私欲でなく公を意識した望ましい共同体を象徴していると思う。
リア充的アメリカ市民として描かれるパットの方がよほど利己的で軽薄な正義を振りかざしているのが皮肉だ。
パットはこの後もう一回疑ってしまうし、ブレすぎてて賢い女性に見えないのが残念なんだけど、誰もが彼女のようになってしまうことは否定できまい…。

トビンの言う通り民主主義には様々な行程と手続きが必要で「合理的」と言い難い。
白か黒か、好きか嫌いか、得か損かで安直に判断せず、本質を見極めようとする努力なしに本当の民主主義は機能しないわけです。
味方側は決して一枚岩でなく方向性を定めるのに苦労しています。
バリーが工作員ではない、という一点の真実のみが彼と観客が共有している(映画上の)正義なのです。


正しさを証明する面倒な手続きを根気よく乗り越え、バリーたちはやっと信用を取り戻し、アイデンティティを取り戻します。
映画は最後のクライマックス、自由の女神でのバリー対フライの対決に至ります。
すでに本質的なカタルシスは終了し、アクション的な見せ場を作ってスパっと映画を閉じます。
比較的オーソドックスな演出から特撮ありスーパーショットありの演出に転換するメリハリが見事。

敵の組織はどうなったの?トビンは捕まったの?
とかツッコんではいけません(笑)
そこはこの映画の本質じゃないんです。


日常生活では人の心の内が見えたり見えなかったりするのが楽しかったり辛かったりします。
心理は見えない触れないものですからね。
ある意味、これを超えるエンターテイメントのネタはないように思います。
どんなに映像が豪華でも心の内を想像させてくれない映画はつまらない。
見せるんじゃなくて想像させる映画。
ヒッチコックの映画には、映像によって「見えないもの」を想像するおもしろさが溢れています。



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2013
05.04

《憲法は精神である》

Category: 政治・社会
タイトルは瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』にある見出しです。

「憲法」とは何か?
国家の基本的条件を定めた根本法
米国・日本などのものを成文憲法という
米国の憲法は成文憲法としては最古のもので,1787 年に起草,1789 年に発効,1790 年に全州により批准された
英国のものは成文化されたものがなく,慣習法による不文法でそれを不文憲法という。(辞書より)


当時の先進諸国が憲法制定するまでに、それはそれは恐ろしい歴史が欧州や米国にありましたが、その歴史は省きます。

キーワードは
誰が、誰のために、どのように?


東アジアに迫る欧州や巨大なロシア、新興国アメリカなど「世界」と付き合っていくため近代政治の礎となる憲法の制定を諮った明治初期の日本。
「郷に入れば郷に従え」式に明治四年(1871年)から三度、欧州へ使節団を送り勉強に努めた。
その成果として18年後の明治二十二年、大日本帝国憲法が作られ翌二十三年十一月二十九日施行されました。
長い研究の成果として制定されたのが大日本帝国憲法(通称:明治憲法)です。

帝国憲法には現代からすれば問題点があるとされます。
制定過程で自由民権派が弾圧され一握りの者によって作られたものだという意見もありました。しかし、民権派の私案も天皇の統帥権など帝国憲法と違いは然程なかったようです。
ここでは個別の問題点ではなく、日本の憲法制定の歴史を振り返り、憲法そのものについて考え書いてみようと思う。

八木秀次著『明治憲法の思想』、瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』から印象的なエピソードを引用し資料を参照しつつ書いていきます。

「憲法は法文ではない。精神であり、国家の能力である」

明治十五年(1882年)憲法調査のため渡欧しドイツ、ベルリンに滞在していた伊藤博文は法学者ルドルフ・フォン・グナイストに講義の申し入れを行った。
その時のグナイストの言葉は以下のようでした。

グナイスト「それは遠方からドイツを目標にお出でくださったのは感謝の至りだが、憲法は法文ではない。精神であり、国家の能力である。
私はドイツ人であり、かつ欧州人である。欧州各国のことはひと通り知っている。ドイツのことは最もよく知っている。が僭越ながら日本国のことは知っていない。
それも研究したら解るだろうが、まず私から日本のことをお尋ね致そう。
日本国の今日までの君民の実体。そして風俗・人情、その他、過去の歴史を明瞭に説明して貰いたい。
それについて考えて、ご参考になることは申し述べてもよろしい。それを申し上げるけれども、確かにそれが貴君のご参考になるかどうか、憲法編纂の根拠になるかどうかは私には自信はない。」

八木秀次著『明治憲法の思想』p19。(瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』p96 にも同じ内容の引用あり。)

これはどういうことでしょうか?

別なエピソードを見てみる。

「日本国は歴史を異にし地形を異にし人種を異にして居りながら、独逸の憲法其儘とはどうも変だ。真似にも程があろうに」

大日本帝国憲法が発布される明治二十二年(1889年)初頭。
ベルリンに居た新渡戸稲造は、とあるドイツ人宅でほかのドイツ人客とちょっとした言い合いになったそうだ。
以下先述の「文明史のなかの明治憲法」より若干アレンジして…
ドイツ人「そなたの国でいよいよ憲法が発布されるそうだが、あれってドイツ憲法の真似であろう。」
新渡戸「真似じゃないです。少しは違いますよ。」
ドイツ人「違わない。真似。パクリだ。」
新渡戸「違う!ヽ(`Д´)ノ 」
ドイツ人「ヽ(`Д´)ノ違わない! 」
    「だいたい、ドイツと日本は歴史も地形も人種も違うのに
     ドイツ憲法パクるっておかしいだろう。」
新渡戸「ぐぬぬ、百歩譲って似てるってことにしてだ。」
   「歴史や地理や人種が違っても、憲法は治者と被治者の権利義務を
    掲げるんだから、概ねどこの国のものだって似通ってくるでしょう。」
   「それでもパクリだというなら、ドイツ憲法だってアメリカ憲法の
   『大統領』を『帝王』に、『共和国』を『帝国』に書き換えただけで
    似たようなものじゃないか。」
ドイツ人「違う。ドイツは帝国で、アメリカは共和国だ。」
新渡戸「名前が違うだけで権利義務を明記するとこは変わんないじゃ〜ん。」
   「ていうか、あなたアメリカ憲法読んだの?」
ドイツ人「読んでない(・∀・)」
新渡戸「( ゚д゚)…」

セリフはアレンジ入ってるのでアレですが…ホームパーティには不釣り合いな言い合いに発展してしまったらしいことは想像出来ます。
どちらも間違っていないと思いますけどね。

先のグナイストの発言と新渡戸とドイツ人の応酬は「憲法とは何か?」考えるヒントが含まれています。

グナイストの考え「法は民族精神の発露である」
ある民族、国民が長い歴史の中で育ててきた共有認識を文書化したもの。
ゆえに、グナイストは伊藤の期待に答えるためには日本国のあらゆることを知らなければ不可能だ、知ったとしても(他国人の付け焼刃では)自信はない。と言っているのでしょう。

一方、新渡戸とドイツ人の言い合いではどうでしょうか。

ドイツ人はグナイスト同様、国の個性によって憲法は成立つと主張します。
新渡戸は「治者と被治者の権利義務を掲げるのである」から王様×民衆、大統領×民衆…関係性の名前がどうであれ、両者に縛りを設けることは憲法に必要なことである。
つまり、どうしても書き込まねばならないことは万国で共有され得る。と考えていたわけですね。
今風に言えば「価値観の共有」でしょうか。

では、ある国のすべての事柄が他国にも共有可能かというとそんなことはありません。
宗教や言語、死生観、生活習慣、家族観、商習慣…様々な違いが国々にあります。

Constitution = 憲法?

元々英語の「Constitution」に漢字をあてたのが「憲法」です。
ですが、Constitutionには憲法以外に「構成、組織、構造。体質、体格。気質、性質。政体、国体」の意味があります。

国を構成するもの…構造…気質…国体…。国柄ですね。
国柄はどうやってできるか?
人柄が血のつながりも含めて長い時間をかけて構築されるように、歴史の積み重ね、伝統・文化といったものが国の個性になる。
国の個性=国柄を憲法として文字で全て書ききることは可能でしょうか?
無理だと思います。
1人の人間の個性すら言葉で説明したり文字で正確に書くことは不可能ですし、できるなんてのは傲慢でしょう。
日本人に憲法制定の助言を受けたグナイストが、日本のすべてを知らないと助言はできない。知ったとしても自信はない、と言ったのはちょっと意地悪ですが謙虚な姿勢だと思います。
外国人が他国の憲法にどうこう言えないのは当然ですね。

憲政史家の倉山満氏は、憲法とは国のかたち(歴史伝統文化)であり、その中からどうしても必要なことだけを書き記したのが憲法典である。と解説しています。

イギリスが成文憲法なしでやっていけてるのは歴史伝統文化の蓄積(判例)によって各法律が運用されているから。

国の個性たる憲法は歴史伝統文化、つまり国民の営みから生まれ、時代によって漸進的に修正されていくもの。
国の個性から抽出されたどうしても必要な(普遍的な)ものが憲法典であり改正には慎重であるべき。

では、その憲法典は日本なら日本の個性を反映したものにできるんでしょうか?

伊藤博文はグナイストの言葉に悩まされた後、ウィーンで国家学者・社会学者のウォーレンス・フォン・シュタインに助言を求めた。
『明治憲法の思想』からやや現代語調に改めて引用します。
「古来の日本の歴史に問い、これを現実に照らし、かつヨーロッパの学問を吸収せよ。」
「本国の事実を知らずしてこれを他国に求めんとするものは、すなわち研究の基礎を欠くものなり」
シュタインはこのように説いた。
日本の立法や憲法は何より日本の歴史と文化に根ざしたものでなければならない。
まず日本の歴史を研究せよ。


グナイスト、シュタイン、新渡戸の意見を総合すると以下のようになると思います。
憲法に則り憲法典を書き記す、ということは。
国の歴史伝統文化に則り、どうしても書き記す必要のあることを突き詰めることによって国家・国民の基礎とし、自国の個性を世界に表すことができる、ということ。

アメリカに始まり、ドイツや欧州に広がった近代憲法はこのような精神で作られたのでしょう。
日本もまた、欧州での研鑽を元に自国の歴史文化を問い近代憲法として形にしたのです。



さて。

いまの日本国憲法は誰が、誰のために、どのように作ったんでしょうか?
(ここまで読んだ方は こう訊かれて恥ずかしい気持ちになってませんか?)
日本国憲法には英語の原文が存在します。
外国人にも読んでもらうために英文を作ったんでしょうか?
違います。
占領期に一握りのアメリカ人が作り、日本の官僚が一週間ほどで修正・邦訳したもの。
それが日本国憲法です。

特定のイデオロギーを持ち出すまでもなく歴史的な近代憲法の理念に則れば
日本国憲法は「憲法」に依らず作られた、「憲法典」の体をなしていない外国人の作文と言って差し支えないでしょう。
主導したアメリカ人もまさか日本が主権回復後も使うとは思っていなかったそうです。
アメリカ人も憲法のなんたるかを知っていたから「まさか使うとは」と思ったのでしょう。


そんな憲法を受け入れ続け一行も変えるなというのは自己否定になりませんか?
憲法論議を危険視させるために「戦争」を持ちだして恫喝するのはよほど危険だと思いませんか?
敗戦と戦後の日本を前提に閉じ篭るのはバカらしいと思いませんか?
日本の古代、権力者や貴族を対象にした十七条憲法や大宝律令から、国家と国民との間に憲法が生まれた明治までの歴史が、占領軍による憲法制定によって中世か古代まで逆戻りしたことを「良し」とするのでしょうか?


個別論や憲法の条文を幾つかを取り出してこねくり回す議論(しかも年に一度のブーム)にはほとんど意味を感じません。

世界の憲法がどうだったのか。
その中で日本は何を選択したか。
その良し悪しはどうなのか。
自力で作ってない日本国憲法を改正の対照することは論外です。
自分で作ってないものをどうにかしようとするからオカシナ議論になるのです。

まずは、日本の歴史伝統文化の成り立ちを問うことからはじめなければ、自民党であれどこであれ、憲法改正案は日本国憲法と同じ紙くず同然と言って良い。


日本とは?
憲法とは何か?
誰が、誰のために、どのように作るのか?

焦らずに問い直し改めましょう。



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