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2013
12.31

楽描き納め

Category: ひとりごと
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2013
12.29

「平成二十五年。仕事のまとめと感謝」

Category: ひとりごと
今年も引き続き「シン・エヴァンゲリオン」をメインに知り合いの作品のお手伝いやイラストの仕事をやってきました。

「シン・エヴァ」は「:Q」までをご覧になっている皆さんならお分かりかと思いますが、まったくのオリジナル展開になっています。
その分、シナリオ作りにはこれまで以上の時間がかかっておりお待たせしてしまっています。
ボクが言うのも変ですが、しばらく、しばらくお待ちください(^_^;)

さて、エヴァ以外のアニメの仕事で印象的だったのは
「進撃の巨人」2つ目のエンディングアニメーションへの参加でした。
前半(ミカサが湖の畔を駆けて来るカットからマフラーが解けるまで)を担当しましたが、後半を新井浩一さんがやられるということで大変緊張しました。
おかげで程良い緊張感の中で集中力ある仕事ができたように思います。
この仕事では「絵本のような画面」という演出の山本沙代さんのコンセプトによって通常のセルアニメとは違う方法をとりました。
絵本のような質感を出すために沙代さん指定のデッサン用紙にコンテ(Coute á Paris 2B)で作画しています。
コンテの方は、イラストでいろいろ画材を試していた中で持っていた自前のもの。
新井さんはパソコンを駆使して同様の画面作りをされていて驚きでした。
コンテは消せないので、下書きで動きを作った後はマジック描きか墨絵のような気持ちでバババッと一気に描き進んで行く。作画枚数はボクの部分で200枚くらいだったと思います。結果的に描き損じは2枚でした。
途中でコンテが足らなくなって画材屋さんに行ったらあと2本しかなく全部買ってもまだ足らなくなって制作さんに取り寄せてもらったりしてました。
デッサン用氏も途中で追加してもらい、想定した作業量をはるかに超える仕事になりましたが、おもしろい仕事ではよくあることです。
この頃、本を読むのにゆったり座れる座椅子を買ってたんですが、最初に使ったのが仮眠でした(笑)

ボクとしては「アインザッツ」の挿絵でやっていた鉛筆画のザラッとした質感や、「峰不二子という名の女」のオープニング(ちょっとだけしかやってませんが)の流れにありまして、あれは通常の原画作業で、エッチングのような質感でしたが、「進撃」エンディングは絵本のような質感にシフトして徹底した画面作りになったと思います。
輪郭線がつながっていないので仕上げさんは苦労が多かったと聞きました。ありがとうございましたm(_ _)m

デジタル時代になって高精細で均質な画面(画面の隅々が高精細なため、全体として均質で焦点の定まらない画)になりがちですが「山田くん」「かぐや姫の物語」「虹色ほたる」など、模索すれば個性的で味わいのある画面作りは可能だと思います。

エンディング(オープニング)は短編アニメのような感じで集中できる利点があってとてもおもしろい仕事でした。


今年も様々な方々に支えられて仕事をすることができました。
ありがとうございます。

今年参加したTVアニメでは来年放送されるものもあります。
一つは「キルラキル」、もう一つは…書いて良いのかな?…「スペースダンディ」です。

来年もエヴァ以外でちょいちょい登場予定です。
よろしくお願いします(^o^)/


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2013
12.27

「平成二十五年。政治経済のまとめと感謝」

Category: 政治・社会
去年末に発足した安倍政権の取組は今年一年だけでも質、量ともに歴代首相の中でも飛び抜けているのではないでしょうか。
それだけ、現在の日本は問題が多く、これまで放置されてきたことが数多いということなのでしょう。

とはいえ、今年一年あるいは数年かけても「進んだ」状態ではなく「正常化」に近づき始めただけです。
安部首相は「日本を取り戻す」と言った。
その言葉に従えば取り戻す準備が幾つか整った、という一年だったと思います。
今までを考えれば相対的には大変な進歩だけどね。

代表的なものについて書いていきます。

「アベノミクス」を発動
金融緩和と財政出動、成長戦略を進める。

金融緩和の効果で、長らく続いた円高株安状態を脱却し27日現在で平均株価は16,178円。ドル/円は104.75円。日本企業への期待が高まり、物よりお金の価値が高すぎた状況を改善した。
安倍政権の経済政策には今現在もデフレ状態であることを考えると適切に思えないものが混ざっています。特に成長戦略として出ているものは新古典派経済学・新自由主義に基づく構造改革・規制緩和に偏っており、デフレ期にはマイナスに作用してしまう恐れが高い。
デフレ期に縮小したパイの中で供給力を高めたり効率化を図ればコストの切り捨てになる…つまり最大のコスト「人」か削られ、国民が被害を受けてしまいます。その被害を緩和するために手当を…というのはおかしな話です。
このような政策を打つ前にデフレからの脱却をして緩やかなインフレに持って行くことが必要ですが、そのための財政出動が圧倒的に足りません。デフレマインドに陥った政治と国民が支出を警戒し自らの足を引っ張っているのだ。
金融政策・供給側の政策に偏って、財政政策・需要創出が不十分なのです。
第二の矢「機動的な財政出動」を金融緩和と同じく「大胆な財政出動」へ転換することが必要ですね。
この点を是正すればさらに日本の成長力は戻ってきて国民への富の循環も活発化するのでは、と思います。

消費税増税の決断
批判の多かった消費税増税を決断しました。
増え続ける社会保障費などへの財源不足を補うために民主党政権時に決められた三党合意を根拠としています。
増税も財政出動への嫌気も、国家経済を家計のように考える「財政均衡主義(財政健全化)」に囚われていることが要因として大きいようです。
家計ではお父さんが飲み代を減らせばおかずが一種類増えるという恩恵が期待できますが、マクロな国家経済では、誰かが買い物を控えればそれで生活してる人たちの所得が減ることになります。買い物を控えて貯金が増えても誰の所得にもならない。企業が投資を控えて借金返済に使っても社員の所得には貢献しません。貯金や借金返済も必要ですが、自分の足を食べて行うようなやり方ではダメでしょう。この悪循環で経済はどんどん縮小し、税収も減ってしまうのです。
そこに増税の圧力が加わればせっかく盛り上がってきた景気回復期待は萎んでしまう。財政均衡、緊縮ムードがさらに進んでしまいます。

税収不足は経済成長によって補うのが筋だろうと思います。
アベノミクスの問題点とつながるのですが、金融緩和とともに財政出動を積極的大胆に行って需要を創出し景気を回復させ、税収を増やしていくことが正常な道なのでは、と思います。
安倍政権としては、景気回復までは時間がかかるのでまずは増税で、ということなのでしょう。ここには財務省の論理が大きく関与しています。彼らのイデオロギーは財政均衡主義にあるので財政出動は控えることになってしまいます。
目的と方法に歪みが生じてしまいアクセルとブレーキの同時踏み(ブレーキの方が強い)というおかしな状態になっています。
政治だけでなく、国民の側が、こうした歪んだ状態に関心を持つことも求められていると思います。
好景気でも不景気でも同じだけ取ろうとする消費税は実は不公平、不合理なものになってしまいます。所得税、法人税に重きを置いた方が景気の調整機能も含め税制として良いのではないでしょうか。
税制改革は西田昌司議員が積極的に発信していますし、与党内で議論を重ねているようです。

国土強靭化法・交通政策基本法の成立
南北に細長く、離島が多く、脊梁山脈で日本海側と太平洋側に分断されがちな日本では各地域の交通や政治経済の拠点が災害で破壊されるとそれ以外の地域にまで間接的被害が生じたり、被災地の救援に支障をきたしたりします。
命が奪われる災害が毎年毎季節起こる日本では、比較的自然災害の少ない欧州などより公的資本形成(公共事業)への投資が多くなります。多くしなければ国民の生命財産を守れません。
にもかかわらず、公共事業悪玉論や財政均衡主義など偏狭なイデオロギーでもって欧州よりも公的投資が減ってしまったのです。デフレを脱却できない要因でもあります。
マスコミの言う「予算大幅増」はウソで、予算は実質縮小になっているそうです。国土強靭化法の決定がこの歪んだ認識を変えていく契機になれば良いと思います。
日本全国を網の目のようにつなぎ自分たちの地域だけを助けようとするのでなく、日本を家族のように考えて助け合う国土造り「国土強靭化法」が決まったのは歴史に残る重要な出来事です。
しかし、適切に運用して生かさなければ意味はありませんから、国民の理解と支援が必要。大事なのはこれからです。


世界各地への訪問
安部首相は、ベトナム、タイ、ミャンマー、インドネシア、フィリピンなど東南アジア。ロシア、モンゴル。イギリス、ポーランドなど欧州。サウジアラビア、トルコなど中東。アメリカ、カナダ。…20数カ国を歴訪し、政治経済、安全保障で信頼関係の強化を行っています。
来年にはアフリカへの訪問も決まっている。
外交予算が底をついて大変だ、というニュースがありましたが、外交にも積極的な投資が必要ですね。

特定秘密保護法の制定
独立国が持つ当り前の法律がようやく制定されました。
情報保全の不備によって戦後の日本は様々な被害を防げずに来ました。拉致事件の発見が遅れ被害者の奪還にも国際連携を取りにくい状況があった。外国での紛争やテロから在外の日本人を守らねばならない時、日本政府は十分な情報を受けられなかった。などなど…
日本国憲法でも9条でも平和や国民の生命財産は守ってこれなかったのです。
また、菅直人政権は中国船体当たりの映像を政権の都合で勝手に「秘密」にし、国民の知る権利を侵害した。現職海保職員が罪に問われることまで覚悟でYouTubeに公開したけど、通例通りニュースで公開していれば起こらなかった「漏洩」だったのです。
こうしたことが起こらないよう、秘密指定には政治家や公務員の責任が伴うこと、秘密期限を過ぎれば公表すること、違反には罰が下ることが決まったのです。
法律は改正できますから、問題点は今後直していけば良いでしょう。

その他、日本版NSC、日本が後れを取っていた安全保障分野。日本版DARPAなど防衛技術振興も正常化しつつあります。

普天間基地の辺野古への移設
民主党政権時の「国外、最低でも県外」というこれまで行ってきた沖縄県やアメリカとの交渉を無視した方針転換で、沖縄の世論が撹乱され新たな基地利権とも言えるような活動も拡大してしまった。何より、街の真ん中にある危険な普天間基地の移転が遅れてしまったのはあの政権の代表的な失政の一つだ。

政府の沖縄県との交渉と歩み寄りの結果、仲井真知事が埋め立てを承認。基地移転が進みそうです。嘉手納以南の返還計画に合意したことも知事の安倍政権への評価、信頼につながっているのだろうと思う。

外国の軍事基地が戦後もあり続けることがそもそもおかしいのだけど、日米同盟によって結果的に日本が恩恵を受けてきた面がある。沖縄県にしても基地を目当てにした経済もあるという。
国が3000億円の予算をつけるそうだが、米軍基地の存在を当てにしてしまう意識の固定にしてはいけないと思う。返還後の復興が、基地に頼らない経済基盤作りにつながれば良いと思います。
少しずつコツコツと。

靖国神社参拝
安倍政権発足から一年を迎えた12月26日。安部首相は靖国神社を参拝しました。
安部首相としては第一次政権でできなかった念願の参拝を実現させることができたわけです。

ボクは神社に参拝する時、故郷の神社にはここで生まれたこと、子供の頃遊び場にさせてもらったこと、両親が元気なことなどを感謝します。
旅先で神社に参拝する時は、すばらしい旅の経験を感謝して、当地の発展を祈願します。
神社は基本的には感謝をする場所なのだと知ってから、いろんな土地の神社に行ってみたくなりました。
感謝できることがある、というのはとても良いことだと思いますから。

神社には祭神に大国主命や天照大御神、素盞鳴尊、建御雷神のような日本の神々が祀られています。菅原道真を祭神とした天満宮や、徳川家康の東照宮、応神天皇の八幡宮、明治天皇の明治神宮や北海道神宮などもあり、コレラ防疫に命をかけた警官を祀った増田神社のような神社もある。

これはどういうことかというと、神社に祀られている神様はボクらの祖先ということなのですね。
山も川も田畑も、日本の原風景は神々の時代から継承されてきた根気強い「公共事業」で作られてきました。政治も7世紀ころには現在につながる原型が作られ、文化では古代の埴輪や壁画から仏画、仏像、版画や屏風画の作風が現在の様々な芸術や日本のアニメにも継承されている。その努力をした人々の末裔がボクら、なんですよ。
神々の時代から現代までに少なくとも125代の皇統と同じだけご先祖様が存在します。
日本中に大小の神社があっていろんなお祭りがあり人々が集うのは、国造りをしてくれた神々につながっていてそこから現在までのご先祖様の存在を感じられるから、というのがあるんじゃないでしょうか。ご先祖の営みがあって今があるということを知れば、神社は自然と感謝の場になっていきます。
靖国神社は比較的新しい神社です。戦で国のために尽くした英霊246万6千余を祭神としていますが、これもボクらの祖先が祀られているところ。意味合いとしては他の神社と変わりません。
軍人を祀ってるから違うもの?…スサノオもタケミカズチも軍神ですし、徳川家康も軍人と言って良い。菅原道真公は政治家だった。
古いのは良いけど明治以降のはダメ?…それはどういうイデオロギーによるんでしょうか。
どれもボクらのご先祖様につながっています。
日本はそういう家族的な国家であって、神社はそのつながりを確認して感謝する場所であり、ご先祖様の努力や失敗に対面して自らをより良く方向付けようとする、人の道を教えてくれる場所、と言って良いと思います。

日本の政治の代表が靖国神社へ参拝するのは、その責務からいって当然のことです。
参拝しないのは日本の政治を背負う覚悟がないのではないか。そう思われても仕方ないでしょう。
失敗を含めて直視する覚悟がなければ国政をお任せすることはできませんからね。
偶然かもしれませんが首相や閣僚の靖国参拝が忌避されるようになってから短命政権が続いています。参拝してた小泉政権は珍しく長期政権になりました。ただの偶然か、先祖への感謝が功を奏したのか。はてさて。
安部首相の靖国参拝は、日本の宰相として必要最小限の行いを再開したにすぎません。
問題は、どのような心持ちで参拝したかです。
政権の座を守ろうとか支持を得ようとか他国への恣意行為だとか、私利私欲に染まっていたら参拝したとしても批判の対象になるでしょう。
また、政権批判のために靖国神社を利用しようとする国内のマスコミや戦後体制に浸りきった者たちも批判されないといけません。
ボクらのご先祖様に唾を吐くような行為だからです。

安部首相は日本を支えてくれた英霊…つまりボクらの祖先に対して…一年間の公務の報告と感謝をし、これからの日本の平和と国民の発展と安寧を祈願してくれました。
ただそれだけのことです。

ただそれだけのことが、安らかに行えるようになると良いと思います。

どれもこれも、まだ始まったばかりです。
来年のこの時期のブログでは失敗と成功の検証と、更により良い方向を探る「まとめ」が書ければ良いと思います。



今年一年、政治・経済や歴史、文化、思想分野でいろんな専門家の方々に著書やテレビやネット配信動画で勉強させて頂きました。
三橋貴明氏、さかき漣氏、青木泰樹氏、柴山桂太氏、中野剛志氏、藤井 聡氏、大石久和氏、長谷川三千子氏、宮脇淳子氏、倉山 満氏、西部 邁氏、伊藤 貫氏、山村明義氏、渡邉哲也氏、田中秀臣氏、古谷経衡氏…などなど。
中には実際にお会いし酒を酌み交わしてお話を伺えた方々もいて、とても感謝しています。
ありがとうございました。


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2013
12.23

ハタビちゃん@天長節・天皇誕生日

Category: ひとりごと
国民の祝日は今日で最後です。
今年一年も、祝日毎にハタビちゃんを描いてきました。
ひとつひとつの祝日に、その意味を調べる度に、日本の歴史文化と出会うことになります。
また来年も今年とは違う気持ちで祝日を迎えることになるでしょう。
できるなら、もっとたくさんの方々と共に。

…↓…追記あり…↓…

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2013
12.22

「『哲人』から学ぶ」

Category: ひとりごと
藤井 聡氏「政治の哲学」第11回はこれまでの「まとめ」




本文は雑感です。
なのでまずは動画見てくださいね。


先ず確認したいのは
「民主主義」はツールであって、それ自体が正しきものではない。
多数の民意が正しいとは限らない。
(長谷川三千子氏の「民主主義とは何なのか」に詳しい解説あり。)
絶対に正しい解はなく。物事には良い面も悪い面もある。トレードオフ関係。
これらを認識した上で、どうやって「より良い」方向へ持っていくかが、政治経済(や個人の人生)にとって大切なことなのでしょう。

動画を見て聞いて…

・一握りの、真理を見ようとする「哲人」
・大多数の、欲望にまみれてしまう俗人の集合、「大衆」
欲望を志向する大多数にとって都合の悪い真理を排除するため「哲人叩き」が横行する。
・真理を求める「気概」を持つ者が哲人の周囲で「大衆」から守護する。

一握りの「哲人」とその周囲の「気概」とその外側大多数の「大衆」
往々にして社会にはこのような階層ができるのだが
一人ひとりの中にも同様の階層が存在し、誰しも心に「哲人」を持ち得るものなのだ。
この指摘は重要だ。

真理とは?
藤井氏はプラトンを例に取る。
洞窟の壁に映った牛や馬の姿を本物だと思って見てしまうの大多数の者に対して、その中にあって流されず一歩引き、見ていたものが影だったことに気が付くことができる者。影でなく実像の…つまり「真理」に気が付くことができる一握りの存在、真理を伝えようとする存在を「哲人」と呼んだそうだ。
真理とは常に自分に都合が良いとは限らない。むしろそうでないことの方が多いだろう。
ただの岩が角度でもって牛の影に見えることもあり得るわけで、真理を知ってがっかりすることもある。
ガッカリしたくない者は影だけを見つめてその場その時の欲望に溺れ、不安感から逃れ、本物から目をそらそうとする。

欲望を乗り越え、真理を知ろうとすれば、たとえ一時的に失望することがあっても本物を探し出せる可能性も高まるわけです。

欲望と恐怖
でも、一般的には真理を探すことなど簡単ではありません。
一時の快楽を手放すのは恐ろしくもある。
何が正しいのかわからない、その不安、恐怖が、真理を提示しようとする「哲人」的姿勢を阻害し叩き潰そうとする。
その繰り返しが「欲望にまみれた大衆」を作り出す要因になり得るのだろう。
不況や政情不安は格差やストレスによる嫉妬、怨嗟を招き、富裕者叩き、大企業叩き、権力者叩きを呼び起こし、大衆同士にも二項対立を突きつけて(小さな)勝者になろうとし、異論者を排斥して安全地帯=閉塞環境を広げようとし、不安や恐怖を遠ざけようとする。
見えないもの、分からないことから開放し、自分を安心させてくれるものこそが「真理」であると誤解し、思考停止状態に陥っていく。

陰謀論
陰謀論は不安を都合よく説明してくれる上に努力をしない言い訳にもなってくれる(陰謀の存在は結果からしか観測できず、陰謀を発見し努力で回避できるならそれは陰謀ではない。したがって陰謀論を言い続けることで何かを訴えているように自己満足できてしまい、努力、行動をしない自分を容認できてしまう)ので、真理から目を逸らす力が絶大だ。

欲望と恐怖、陰謀論にハマりきってしまうとマインドコントロール状態に近くなり、元に戻れなくなる可能性が極めて高いと言えよう…。
そんな場合は、外圧が必要だと藤井氏は説く。

自分の中の「哲人」
「欲望にまみれ我欲に堕した大衆の一人」が「哲人叩き」の快楽に溺れながら大多数を成し(皆が善行のつもりであるにかかわらず)全体主義を形作ることになってしまう。
かつての欧州のように、「大衆」に「哲人」が押しつぶされ「民主主義の専制(悪しき民主主義)」によって全体主義の悲劇に陥ってしまった歴史的事実がそれを証明している。
自分の中にあるはずの小さな「哲人」に気が付けないまま欲望や恐怖にかられてしまい、同類で多数化して安心し、民意を形成し、もはや省みることもなく、結果として不幸な社会を作ってしまう可能性が極めて高くなるのだろう。

「哲人」的姿勢に近づく とは?
・自分の中の真理を見ようとする「哲人」的な小さな光をどうやって見つけ「哲人」的姿勢を持つか?→様々な情報(人、場所)に触れ、よく見てよく考える。
・欲望、恐怖、嫉妬(感情)に駆られてその小さな「哲人」を叩き潰そうとする情動を抑えられるか?→心地良い情報だけを選んだり、あらかじめ決まった答えに沿う情報ばかり選んでないかよく見てよく考える。
・「哲人」的姿勢を持つ仲間を見つけて社会を形成できるか?→議論と勝ち負け(競技ディベート)を混同しないで高め合う。
・先人、おじいちゃんおばあちゃん、両親、身近な尊敬できる人たち、祭(政)、山や河や田畑の古来からの土木…などなど昔からある知恵や工夫(失敗例も含め)…そのような存在が持つ「哲人」的姿勢をまっすぐに見て受け取ることができるか?→歴史・伝統や文化への関心。
…を意識し続け自らに問い続けることが必要なのではないか。
(個人的には「勘」も大きな割合を占めるのだけど、それに頼るのは危険だと思っている。)

自分の中で、我々が属する小さな社会でも、国政の中でも、国(政官民)全体でも、このような「俗人への陥りやすさ」との戦いが日々繰り広げられていると認識すること。

欲望などに流される「俗人」でなく、「哲人」的(絶対的か、正しいか、でなく真理を見ようとする)姿勢を持つ人々がどれだけ大きな社会を形成できるかによって「民主主義」が適切な機能を発揮できるかどうかが方向付けられ、より多くの人が幸福を感じられる方法を選択できるようになるのではないか。

周囲や政治がそうなってるか以前に、自分どうなのかを問うこと。

「お天道様に対して恥ずかしくないかどうか」
正しさってなんだ?と考えた時、理屈でなく腑に落ちるのはこの言葉だった。
藤井氏も「プラグマティズムの作法」や数々の動画でこの言葉を使っています。
キリスト教圏ではない日本人にとって人道として正しいことを問うときに、この言葉はとても良いと思う。
自分だけの感覚や考えに依存せず、物事を見ようとする…一歩引いてそれが影であることに気が付く…つまり真理を見定めようとする時にも、この言葉はとても良いと思っています。




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2013
12.19

「国土強靭化と国民強靭化の実現」

Category: 政治・社会
「首都直下地震:M7級で死者最大2万3000人」毎日新聞

歴史地震の発生パターンから今後数年から十数年以内に東日本大震災並かそれを越える地震被害が起こる可能性が高いと言われています。
予測された膨大な被害は現状のまま大地震を迎えた場合。
そうさせないための取組が安倍政権になって加速しています。

記事に「この地震で原発関連施設の被害は検討する必要はないと判断した。」とありますが、首都圏に原発がないからですよね。なにか批判を呼ぶポイントを入れ込みたかったんでしょうか?
各地の原発ではすでに地震津波対策が進められ福島第一の事故を引き起こした津波・全電源喪失への対策が順次整いつつある。伊方原発を見学した際も幾重にも重ねられた防災・テロ対策、多重な緊急発電機の設置が印象的でした。
むしろ、千葉、東京、神奈川にある12ヶ所の火力発電所が破壊され電力供給が激減することの方が心配だ。
この点が指摘されていないのは妙だと思って報告書を見てみました。

首都直下地震の被害想定と対策について
『 地震直後は、火力発電所の運転停止等による供給能力が5割程度に低下し、需給バランスが不安定となり、広域で停電が発生する。また、東京都区部では、電柱(電線)、変電所、送電線(鉄塔)の被害等による停電も発生するが、電柱(電線)等の被害による停電は全体の約1割以下である。 』
『湾岸の大部分の火力発電所が被災した場合、最悪、5割程度の供給が1週間以上継続することも想定される。』


火力発電所の被災によって最悪5割程度の状況が1周間以上継続することが、想定内です。
ちゃんと検証されてるじゃないですか。毎日新聞はなぜこれを無視したのでしょうね。

東京、東海・東南海地震を含めれば太平洋側ほぼ全域で湾岸の火力発電所が被災します。
頼りになるのは日本海側の火力と、再稼働できていない原子力発電所。
火力に頼らざる得ない状況は原発の再稼働が進んでいないためです。朝日、毎日などマスメディアのほとんどが原発再稼働に反対しているが、地震の膨大な被害予測を目にしても尚、イデオロギーによって国民の生命を毀損しようとするのだろうか?
再稼働容認の声を増やしたくないがために電力供給の被害予測を「隠した」のではないか、と疑わざるを得ない。
なにも原発にこだわるわけではない。
緊急事態のために複数の方法でライフラインを確保しないと、まったく大げさでなく命の危険に直結します。
地震がなくても毎夏毎冬節電を半ば強要される「被害」を受けている日本全土に関東地方(太平洋側)を助ける余裕がどれだけあるだろうか。

国土強靭化基本法・交通政策基本法が成立
ようやく大地震大津波への対策が推進できる法的環境が整った。
問題は適切かつ迅速に運用できるのか、です。
そのためには国民の理解が必要です。

しかし、例によって言論的環境は劣悪なままだ。
「土建国家復活か?」「息を吹き返す道路族」「健全財政を守れ」などなど
現在の日本は自然災害の比較的少ない欧州より公的投資が少なくなってしまっている。
毎年毎季節死傷者を出す災害が起こる日本で欧州以下ってのは国民に「死ね。」と言ってるようなもので、穏当な表現でも「死んでも知りません自己責任です。」と言ってるも同然。
国家、政府が国民の生命や平穏かつ安定的な生活を守る責任を実感しているなら常に一定以上やってないといけない取組でしょう。

第2次安倍政権でようやくまっとうな国民のための基本的な政策が動き出したわけです。
(新古典派経済学・新自由主義的な面を改めてくれればもっと良いんですがね。)

個別の問題(不正な癒着など)には予防的な法律があるし違法行為は厳しく取り締まれば良い。
財政問題は海外に借金しない限り中央銀行を持つ日本にはほぼ存在しない上に、適切な経済成長で政府の借金(国民の借金ではありません)は返していける。
どちらも国土強靭化に反対する理由にはならないのです。
微量でも問題があり得るならダメだ!というなら、もう現実社会で生きてはいけないですしね。

国民の生命を守り平穏かつ安定的な生活の維持と発展を目的にするならば、大胆な財政出動が必要で、公的投資・公共事業は減らしてはいけないでしょう。
これらは民間には不可能で、国家による取組が必要。

被害を減らす取組を国家に進めさせるには、マスメディアに騙されず、国民が誤解を解き、旧態依然な体質を改善する意思が必要でしょう。
国民の強靭化を進めないといけません。
こればっかりは、自分で努力しないと誰も助けてはくれないからね。



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2013
12.16

彫刻の森美術館:ピカソ館

Category: お出かけ
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箱根へ旅行してきました。
風が強かったんですが、天気が良く、気分も最高な旅になりました。
たぶん、これが今年最後の旅行・取材になるだろうと思います。
仕事に直接的な取材旅行と私的な旅行、会社の慰安旅行から単独行動で散策に出かけたものなどなど、今年は様々な土地を歩きました。
今年最後にこのピカソ館を訪れたのはなかなか重要な体験になった(なる)だろうと思ってます。

彫刻の森美術館は1969年開館した日本国内初の野外美術館。
ピカソ館は1984年に開館したそうです。
ボクが初めて行ったのはその数年後で20代の頃だったかな。
ピカソの絵や彫刻は写真で見たことはありましたが本物を見るのはその時が初めてでした。
ピカソといえば立体を分解し再構築した有名なキュビスム時代の作品など、パッと見「これは何?」と言いたくなるような作品群で、何が良いのか捉え難い印象が強いと思います。ボクも青の時代やバラ色の時代、晩年の母子像のような作品が感覚的に掴みやすかったものです。
しかし、本物から受ける印象は全く別物で、写真でしか知らなかった時の知識に偏った、あるいは「わかろう」とする見方を覆すもの。
それは「生きている」という強烈な感覚。感覚というより体感ですね。
この季節、道路に積もった落ち葉を集めるのに風を発生させる機械を使ってるのを見たことがあると思いますが、あれを真正面からブワッ!と吹きつけられたような感じと言ったら良いでしょうか?
「鳥肌が立つ」を超えていました。
キュビスムの作品であっても、牧神の顔が描かれたお皿であっても、パッと見でそれが何でどんな人のどんな表情なのか理解できなくても「来る」ものがあった。
描かれている形は写実と違っても、今にも動き出しそうな、声が聴こえるような感じだったのです。
見る人に何かを伝える時、表面的な写実性、リアルさというものは必ずしも必要じゃないんだな、と実感しました。(予感程度だったかもしれないが。)

当時はアニメーターになって数年で動画だったか原画になっていたか覚えていませんが、「生きている感じ」を描き、動かすためには、形にこだわる必要はないし「自分の絵」である必要すらない。
アニメーションの楽しさというのは(すべてとは言いませんが)絵柄的なところとは別なところにあるのだろう。
そんなことが観た後じわじわと来たのでした。

それから20数年経って箱根でピカソに再会しました。
一つひとつの作品から感じるものは今も変わらないのですが、今回はその膨大な作品の数に驚愕しました。
絵皿では一日に20枚にも及ぶ絵付けを行ったり、陶芸職人がポイっと放り投げた皿の欠片や粘土の塊をあっという間に作品に仕立てしまう。陶芸作品は数千にも及ぶそうだ。
一枚の版画に18回も修正を加えたジャクリーヌの肖像は解説にもあるように18段階のすべてが独立した作品のように見えました。
このように感性だけで次々作り出せたように見える作品群は、少年時代からのアカデミックな積み重ねがあってのことでしょう。
いきなりキュビスムの作品が生まれたわけでもなく、いきなり自由闊達な陶芸、彫刻作品が生まれたわけではなく、それぞれの基本的な特性をよく知った上での「自由」なのだ。
知らないで勝手なことをやることは自由とは言わないし、すぐに行き詰まる。
小さな積み重ねがあって初めて自由自在に膨大な作品を生み出せたのだろうと思う。

アニメーターは数をこなすことと質の高い仕事をすることの両立に苦労します。
自分がやりたいことと作品や演出が要求することの違いに苦しむこともあります。
両立できている先輩を見ていきなりそこへ行こうとする。個性的な作風を真似してみたりする。
しかし、積み重ねのない真似事は早晩行き詰まってしまうのです。

思いつくまま乱造してるかのように見える作品群が、それ以前の膨大な経験値に支えられ、経験の中で感性をすり減らさず(ルーティンワークに堕さず)、常に新鮮に保ってこれたことに驚愕しました。
自分が好きなものだけにこだわらず、好き嫌いであらかじめ選んだりせず、見逃してしまうような小さなことも見逃さず、素直に物事を受け取って吸収し作品に昇華できた。見る者には理屈ではない言葉に出来ないような感覚を想起させる…。
簡単そうで、極めて難しいことです。
これは20年以上商業アニメをやってきて痛感できたことかもしれません。

そして、上手く描こう、誰かに気に入られようとして描き惜しむ暇があったら手を動かせ!もっと描け!
他人や状況のせいにするな!と言われているような気分にもなりました。
ありがたい叱咤激励に、ピカソ館を出てからもしばらくは寒さを忘れることができました。


来年は原点に帰ってアニメーションやイラストや様々な表現分野で手を動かしていきたい。
まだ、耄碌するには早すぎますからね。



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2013
12.11

「人の営みの積み重ね」

Category: ひとりごと
前回の投稿の補足として少し漠然としたことを書きます。(いつも漠然とした書き方ですが)

IMG_2016.jpg
松山空港へ向かう飛行機から見た瀬戸内の景色。
グーグル地図で探したところ広島県の佐木島のようです。
写真上が三原市ですね。

ここまでの大俯瞰だと島の形のおもしろさや国土の70%が山であるってことをつくづく実感することになるんだけど。
国内線に乗ったら山を見てみてください。ほとんどの山に道路があり、深い山にもいつ作られたかわからないような山道があります。
日本の国土の殆どには人間の手が入っているんですよね。

ものを見る意識
というのは職業上、形や状況のおもしろさだったり使われ方のおもしろさを観察することが多いです。
地べたを歩くと大俯瞰では見えないディテールが見えてきます。
とはいえ超ミクロな画面もアングルとしては俯瞰になることが多いんですけどね。
物事を俯瞰して見る、なんてのも単に立ち位置の問題でどこまで引けば俯瞰したことになるのかキリがないです。


前回の投稿のように国家観なるものを意識するようになる前から、日本の建物の形や構造、佇まいが好きだったし、鉄道の周辺にある構造物が好きで、そこに人の営みがあることに興味を惹かれていたように思います。
宮崎駿さんの仕事に出会って、戦車や飛行機のメカニカルな興味だけでなくそれを使う兵隊たちや戦争の背景に興味を持つべきだという(何かのインタビューだったと思う)言葉にも影響を受けました。

都会に住んでいると人工的な四角四面の空間に慣れてしまいます。
この場合の「人工的」というのは、言うなれば手作り感がないというような意味ですね。
いわゆる日本的な場所、人の営みを感じるにはに田舎に行くしか無いのか?というとそうとも思えません。
銀座であれ、新宿であれ、六本木や赤坂でも戦前・戦後からの継承を観察できたりします。
東京は関東大震災や大空襲で何度も壊されているのでそれより前のものはなかなか見つけにくいけど、独特の地形が造る古い石垣や江戸時代(?)に引かれた用水、坂の名前が書かれた道標などが街角に立っていたりして人の営み、手作りの町を想像する手がかりになります。

国家観、というのは人の営みの積み重ねから、積み重ねを実感する気持ちから生まれてくるのだろう、とも思います。
自分だけでは成り立たない社会、という当り前のことが、コンビニにいけば食べ物も生活用品の多くも誰とも会話を交わさずにお金さえあれば入手可能な生活からは実感できそうにありません。(経済やビジネスに興味あればコンビニも別な見方ができるようになりますし、何よりとっても便利なのは確かですが)
好きな仕事を選びさえすれば、好きな仲間たちと居さえすれば、それ以外の想定外と関わらないで生きて行けてしまうのが現代で、特に都会なのでしょう。
そこに居続けたら、国家観なんて考えなくても済むし必要ない、むしろ心地よい「今」を壊すものじゃないのか?という猜疑心を膨らませるのも無理は無いように思います。

ただ、それも、じゃぁ田舎の暮らしをしてみろ。という話ではないんですよね。

「国家観」って?
親が怪我をしたり病気で入院したりして今年は実家に帰る日が多かったんですが、子供の頃遊んだ神社や線路の周辺を歩くと昔あった洗濯場がなくなっていたり田圃がマンションになっていたり、逆に神社には昔はさっぱりわからなかった御祭神の札が新しくかかっていたりするのを発見出来ました。
都会に出なければ気が付かなかったことかもしれません。
神社や神道に興味を持たなければ神社の由来書や新しい注連縄やよじ登った木が神木だったことなんかも理解できなかったでしょうし、そういった取組みに人の営みがあることも想像できなかったでしょう。
そういった古来から受け継がれた小さな一つひとつが「国家」という感覚を造っていることにも、気が付かなかったように思います。

戦後の日本では「国民国家(Nation state)」は否定され「市民(People)」の集合体のように考える傾向が強まりました。
個人が重視され国家は小さいほうが良く無くても良いのだという風潮が今もある。
それは人の営みの積み重ねを否定するような気がしています。少なくとも人の営みの積み重ねを意識しなくても生きていけるような、自分さえ良ければ良いという、抜け目のない、乾いた、優しいとは言えない社会なのではないか、と。

漠とした疑問というのは小泉政権の頃からあったんだけど民主党政権で愕然とし東日本大震災で明確になったように思います。
ボクの年齢を考えれば気付くの遅すぎです。

都会にも田舎にもある人の営みの積み重ねを、将来のために継承していくこと。
国家観とは、そうやって造るものと考えれば何も訝しがることはないでしょう。
国民の多くが、誰かに与えられるのではなく一人ひとりが積み重ねて共有していくものだと意識できていれば、「国家観」をねじ曲げ、悪用しようとする者たちを見逃すことも、利用されることも、起こりにくいだろうと思うのです。

意識の持ちようは、ちょっとした努力で身につけられると思います。



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2013
12.10

「『国家』という意識」

Category: 政治・社会
特定秘密保護法案だけでなく経済問題や生活一般に至るまで、どこの国の人々も現在では「国、国家」とその行政機関「政府」の取組みに影響を受け、また民主主義国では国民が「政府」へ影響を与えながら生きています。
「国家・政府」から関係なく生きることは…できてる気がしても…実はできていません。

人は将来がよりよく生きられるよう家族に道を作ろうとします。
将来の家族がよりよく生きられる世界を実現したいと望みます。

誰しもこの願いは共通だろうと思います。
自分が死んでも次の世代が幸せであるようにするためには自分ではどうにもできない社会全体を司る「国家」的な取組みの継続性が大事になってきます。

ボクらの見える範囲では概ね個人の営みが強く感じられ国家的取組みは縁遠い感じがします。
しかし、考えてみれば社会には個人にしかできないこと・国家にしかできないこと。様々あることがわかります。
大小様々な企業が競争しあって技術やクオリティを磨き、商品をたくさん作って人々の生活を豊かにする。
農畜産漁業でも人々の長年の経験や技術が新鮮で美味しい食べ物を収穫してくれます。
そして運送業も進歩して食材を新鮮なまま届けてくれたり注文した翌日に届けてくれたりします。
そのための道路や鉄道、航空ももちろんなくてはならないものです。
通信も現代では重要な道具で、商品でもありますね。
電気・水道・ガスがなければ生きていけません。医療にも不可欠です。
国民の命を守る国防。

それぞれは国民個人の集まりですが、束ねているのは国家です。
個人の力が上手く機能するように環境を整えることは国家にしかできません。
税金を集め、貨幣を刷り、予算を作ることは国家にしかできません。
個人の手に負えない国防や基礎的なインフラ事業は国家にしかできません。
長い歴史の中で個々や地方がバラバラにやるより国としてまとめた方が良いという経験でそうなってきました。
特に各地に独特の土地柄があり毎年毎季節自然災害に襲われる日本では皆で助け合った方が良いのでそうなってきました。

「個」と「公」
物事には優先順位があって、例えば壊れた橋を修理するためにお菓子や服に使うお金を我慢して修理予算に回さなくてはいけない(三食を欠かすわけにはいかないのでお菓子や服を我慢してもらう)ような時があります。
個人の一時的な要求より、多くの人が長期的に行き交うのに必要な橋の修理を優先させます。
その決断には「公」「公共」を見据えた存在が必要になります。
それが「国家」だと思います。
その我慢は当然、為政者にも求められます。
経済がボロボロなら長期的な目標は一時先送りして、国民生活を立て直すことを急ぐのも政治に必要な判断、決断になる。
…家々からかまどの煙が上がっていない。不作で民が苦しんでいるのを知り免税をして民のかまどから再び盛んに煙が上がるようなるまで宮殿の修理を先送りした…という仁徳天皇の「民のかまど」の言い伝えは政治が何のためにあるかを教えてくれます。
また、この言い伝えには民が感謝の印として宮殿の修理に積極的に携わったというオチもついているそうです。
つまり双方の信頼関係が大事である、というのがこの言い伝えのポイントだろうと思うのです。

誕生日なのにケーキを我慢しなきゃいけないのか!楽しみにしていた家族や友達の気持ちを踏みにじるのか!と怒る人が出てくるでしょう。(例えの話ですよ)
しかし、橋が崩れて様々な商品や食べ物が手に入らなくなる可能性を無視したら村や町全体の損害は多大になります。傷んだ橋が災害で落ちてしまい救援が届かない事態になれば損害は生命の危機に直結します。
国家としての判断がそれを許して良いのか?ということになります。
しかも現実の経済では財政健全化によって財政支出を削減する政策が20年も続けられてきたのです。
財政出動による経済効果を無視した理論で特にデフレ期には間違いだと言われています。
この判断も政府がやっていることで安倍政権も例外ではない。

余談ですが
今年は伊勢、出雲、福岡、愛媛、能登、名古屋、三島など(加えてミャンマーも)色んな所に行きましたが、つくづく日本の居住地は川だらけです。川があったから人が集まったなんてものじゃなく、平野があれば自動的にたくさんの川があり、少しでも足らないと用水を引いてあるので、隣の町や市に行くのに橋を渡らないで済む土地は殆どないでしょう。都会では道路の下の暗渠に川が流れてたりするので気が付かないことも多々あります。国土の約70%が山で、脊梁山脈で日本海側と太平洋側に分けられ急斜面を水が駆け下りる川が多いのが日本の国土の特徴。そこに掛かる橋は例えとしてもお菓子や服が買えるかどうかより大事な時が頻繁に訪れる重要なものなのです。美しい橋は文化的にも大切ですしね。そんな橋の多くが老巧化して通行禁止、重量制限付きのまま放置されている現状があります。「国家は悪いことしかしない」論の一種「公共事業悪玉論」が強く影響して目的を果たせないでいるのです。


日本に於いて
マスコミからはよく「政治不信」という言葉が出て来ます。
では、政策の正当性を確認し政府を信頼しようという論調がどれだけあったんでしょう?
政府を悪だと決めつけた上で監視する、という態度が相互の信頼を生むんでしょうか?
マスコミは政府と国民を分断させるのにいつも躍起です。
そうやって醸成された政治不信から生まれ国民を信じていなかった民主党政権は貴重かつ不幸な実体験になりましたね。

「国家・政府」を悪いものだと考える風潮は、まちがいなく戦争が影響してると思います。
めんどうなことに、日本の戦争が戦後の「国家・政府=悪」の観点から説明されているため正確に伝わっていないことが多々あるように思います。
「国家・政府」を悪いものだと思い続けるために日本の戦争を過剰に悪い事だったと語るマッチポンプ状態が続いています。
戦争は複数の国の利害の衝突ですからそれぞれの国に言い分があり、また間違いもある。
その一方だけを取り上げて強調することは間違いです。

「国家・政府」の様々な取組みには「個」を主体にするか「公」を主体するかの両面が常にあり、常にどちらかが正しいということはないはずです。
その正しい選択にも国民と政治が目的をできるだけ多くを共有している必要があり、双方に信頼を得る努力が必要なのだろうと思います。

「国家・国境などなくて良い」
「グローバル」「自由主義」という言葉が聞かれるようになってもう2、30年でしょうか?
どちらも国境をなくし個と個が国家に縛られず自由にやり取りをし”ウィンウィン”になれる社会が望ましいという思想ですが、果たして今の世界はそうなってるでしょうか?
ユーロ圏は?アメリカは?日本は?
グローバリズムも自由主義も失敗し、各国は保護主義的な政策を取り始めている。
経済問題と戦争には密接な関係があります。
バブルが弾け保護主義を強化する中で財政出動をやるのに戦争がとても都合の良い理由になったのが100年ほど前の経験です。日本だけの話ではありませんよ?
グローバリズムは200年ほど前からもあり…考えてみれば国境をなくすという考え方は戦争という方法に行き着きます。自由主義もそれを広げるには「自分たちの掲げる自由」に反対する勢力を倒せば良いという戦争につながります。もっと辿れば宗教戦争も。そういうことが起こりやすかった時代がかつてあったわけです。
冷戦の終結後はほとんどが民主国家に落ち着き個々の文化に口を出すことも少なくなり、戦争のメリットもあまりなくなって(かつてのような国益を取り合う戦争から局地的な民族紛争、宗教紛争がメインになった)、新しいグローバリズムも貿易で相手国の需要を奪ったり安い賃金を目当てに生産拠点を移して利益を上げてきた仕組みも限界にきた。(三カ国ほど相変わらずな国がありますが…)

こうした経験を活かして、各国が自国の独自性を自覚して「国家」としてのまとまりを保持しながら「国家」同士の友好関係を築くこと、その方法を模索することが21世紀の課題なのだろうと思う。

世界共通の問題点と国家ごとにある問題は似ていたりズレていたりします。
ならば、まず日本は自らの問題点を改善することから始めましょう。
自国の問題点を補うために他国のことに口を出せば(←グローバリズム)諍いの元になってしまいますからね。

日本の問題点は、残念なことに、日本国民が日本のことを知る、という極めて初歩的なことからはじめないといけないようです。
本来なら政治も含めた国民の家が「国家」であって、政治家と国民を分離させる考え方が間違っているのだろう。つまり「国家・政府」などという言い方はおかしいのであって「政府・政治全体+国民=国家」ということだろうと思います。

「国家」と言った時、そこに自分がいると思えないのは不幸だと思います。

国民と国民が選んだ政治家が「国家」を形作る、考えてみれば当たり前のことですね。他の国々では「国家」に自分が含まれていることが自然だと捉えられているんじゃないでしょうか?
であれば「国家・政府は悪いことしかしない」と信じ込んでいる国民がたくさんいる国を信用してくれる外国がいるとは思えません。
同じように国家を悪者だと思っている国なら大丈夫でしょうか?
そんな国があったとして嬉しいですか?
それは増えた方が良いことなんでしょうか。

とはいえ、日本は外国からとても好かれているそうです。何が好かれているんでしょうか?

今、議論されている様々な問題は、「国家」という意識を考え直すよい課題だと思います。



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2013
12.06

「特定秘密保護法案成立間近」

Category: 政治・社会
大混乱の中採決が近づいている特定秘密保護法案。

4日、安倍総理から出て来た「保全監視委員会」。
当初の「総理が第三者目線でチェック」から批判に応えての修正で、多少良くなっているとは思う。

チェック機構を政府と切り離せ、独立性を持たせよ、という意見は(日銀の時にもあったけど…)、行き過ぎれば民主主義的手続きから遠ざけることになり危うい。

「第三者」をどう定義するのか?
経済政策では政府や省庁ではない第三者「民間議員」なる者が政策に手を出しているのだが、その「民間議員」たちは国民が選挙で選んだ者ではないし、官僚のように厳しい職務規定を課せられてもいない。
第三者的な目線で…ということなのだろうが国民が選んでもない者が「民間議員」と言われて国政に影響力を及ぼすのはまっとうな民主主義の機能からして問題があると思う。
もちろん、誰の提言でも有意義だと思うので全否定はしません。

経済よりも国民の生命財産に直接影響する国家安全保障で、似たようなことをされたら大問題です。
まず、政府や関係省庁以外の者が国家安全保障に関する情報をチェックと称して見ることが可能になってしまう。
第三者の人選を誤れば特定秘密保護法の趣旨から言って本末転倒なことになり得ます。
それこそ、国民の意思の働かないところで過ちを犯すことになる可能性が否定できなくなり「危険な法律」になってしまうのでは?と思う。
また、仮に民間人の誰かが第三者としてチェックすることになったとして、それは裁判員以上に厳しい守秘義務と責任が負わされ、場合によっては命を狙われる可能性も否定出来ないでしょう。
そんなことを国民に求めて良いでしょうか?

秘密指定が適正かどうかのチェックは必要ですが、目的に沿わない方法や潔癖に過ぎて運用の妨げになれば法律として役に立たなくなってしまいます。
秘密指定をすべて明確に指定すれば良いかといえば、そうではなく。法の抜け穴を探す悪意を防ぐことができなくなります。
ある程度の曖昧さを残すことも抑止力として必要になる。
曖昧すぎても明確すぎても目的に適わなくなってしまう。

常に、目的に適うかどうかを見据えて、それが適正かどうか、お天道様に対して恥ずかしくないことなのかを問い続けて修正しいく努力が必要だろうと思う。
安部首相が批判に耳を傾け修正の努力をしていることは公正に評価すべきではなかろうか。

政治家だけでなく、国民にも(むしろ、まず国民に)そのような姿勢が必要なのだろうと思う。

目的を見据えて
戦後の日本。このような法律がなかったことによるこれまでの損害・被害を…それに目耳をふさがないのはもちろん…今後決して同じ過ちを起こさない。
独立国としての自立性を保持し、国益のため(アメリカのためでなく!)、国際連携をスムーズかつ強固に行える環境づくり。
という国家安全保障の本質、目的を見据えて。可決されたら終わりでなく。
特定秘密保護法と日本版NSCが適切に運用される方法を議論してもらいたい。





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