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「演出について」番外。
(まだ一回しかやってないのにもう番外かよ。もう総集編かよ、みたいな) ここ数ヶ月間本を読むことが多い。 人から借りたものを含めると10冊程読んだだろうか? 普段からよく読む人からしたら大した量じゃないと思うけど …自慢じゃないけど…活字というものに全くと言っていいほど 接してこなかったボクにとっては途方もない量ということになる。 だから、どんな作家がいてどんなものを読めばいいのか分からない。 貸してもらった本が面白ければ同じ作家のものを読んでみる。 その作家と同じ棚にある別な人のを読んでみる。 そんなことを少し繰り返して、最近ようやく保坂和志という人に注目してみよう ということになった。 この人の本が気に入った、わけでもない。いや、面白いし好きだと思う。 それ以上に、やっぱり自分のやっていることと比べてみて興味深いと思ったことが 理由だと思う。 つまり 映像的じゃないから。 物語的じゃないから。 etc. 今読み始めたばかりの『小説の誕生』にこういうくだりがある。
佐藤雅彦氏(バザールでござーる、ピタゴラなどの制作者)について書きながら小説との思考の違いを論じているその一部。 …(佐藤氏は)見えないものを視覚化することや、既に視覚化されているものを運動を介在させて別の視覚に置き換えたりするようなことをしている。 ところが私が小説について考えていることは。視覚による理解の拒否だ。小説の流れを時間軸に落とし込んで視覚化すると分かったような気になるけれど、それで小説を読んだことにはならない。小説を理解したいと思うなら、自分も含めた身近な人間を時間軸に落とし込んで把握してないのと同じように、丸ごと記憶しようとするしかない、という風に私は小説について考えている。… 「この人の閾」を読んで感じたことそのもので吹き出してしまった。そんな考え方の人がどんな小説を書くのだ?と訊かれたらこの本を薦めよう。 映像人間で時間軸を中心に考えている自分としてはとても興味深いと思ったんですわ。 もっとも、ボクがコンテを切る時に考えてることは、それとそう遠くない気もする。 つまり時間軸に乗せて提示される状況や言葉のやりとり、感情の起伏。そういった見て聴いて分かる表面的なこととは別に、見た人が映像と会話した時に起こる気分といったものをどうやって出すか、という思考、そこから出る表現は必ずしも時間軸に乗っているわけではないからだ。 モンタージュ、クレショフ効果なども直接的、時間軸的表現の応用なのでそれとも違う。 文章で言うところの”行間”のようなものを映像で出来ないか、そういう意識に響くものがあった。 (ボクが意識してるのは、たぶん音楽だろうけど) 『この人の閾』を読んだ時面白いと思ったのは、散文的に書かれている文章を読みながら、自分自身の記憶や考え方と会話をし、本の中の出来事と対照づけている。これは時間軸には縛られない。身近なひとと会話をしている気分に近いのだ。エッセイを読む感覚に近い気もするけど、でも違う。 「物語」でもない「人物への感情移入」でもない。 だいたい『この人の閾』に納められている4篇のどれにもそういう類いのものはないのだ。 小説でだって時間軸に乗せ、映像のように語ることは出来るはずだ。 にも関わらずあえてそうしない。 映像にはそもそも時間軸がある。 時間から逃れることは出来ない。 ただ、時間を延ばしたり縮めたりは出来る。(演出の面白い所) だが、あえて時間軸にとらわれないものを潜ませる。映像の裏にある何かとの会話。 そういうことが内容とうまく結びついて(結びつかせなくても)表現出来れば面白いだろうと思う。 ちょっと待て。 こんな長文書かなくたって、それこそが映像演出のキモじゃないか。 …と、ヒッチコックが苦笑して言いそうだ。 * コメント *
本はお好きではないようですが文章はむしろ上手な方のような。
きっと小説にある独特のまだるっこしさが苦手なのでは。 私は小説を書いているのですが、 時間軸のありかた、というのは一つの大きな課題ですね。 この作品はなるべくテンポよく(映像的に!)書こうと努力してみました。 お好きかどうか分かりませんが。 http://web.mac.com/norimibungaku/ *立花ノリミさん
こんにちは。コメントありがとうございます。 本は以前よりはずっと好きになってきました。 文章を読むことは映像に比べるとエネルギーが必要なのかもしれませんね。 ボクは面倒くさがりなので(^_^;) 映像でもそこで起こっていることを細かく理解しようとすればエネルギーが必要ですが、文章と違うのは流し見ができるということかな? 流れで見た印象だけで伝えたいことの多くがキチンと入ってくるようなら、それはそれで構わないと思ってます。 立花さんの小説。今はプロローグのみの公開なのですね。 気怠い匂い、少しチクチクした肌触りを感じました。 アリスのこれからが気になる始まりですね。 私は映画も大好きでよく見ます。
(好きな監督は、あえていうなら大島渚です)。 映像派か活字派かと問われれば間違いなく活字派で、 それは自分が成長期にあるときに、活字によって育てられてきた という思い/思い入れがあるからですが、 最近思うのは、文章でも映像でも結局は「表現」であり、 それが支える圧倒的な質量の現実を、 蓄積された方法にのっとって、示唆することしかできない、 ということです。 そして、その方法に、「個性」はもちろん 「現代性」や「正当性」が問われる。 どちらもしんどい仕事であることには違いありませんね。 私の小説のつづきをアップしました。 お時間のあるとき、いらしてください。 >示唆する
これって難しいですね。 蓄積の仕方、何を蓄積してるか自分とお客さんは同じじゃないんですよね。 自分が提示した表現との反応が幸せな方向に向うことを祈るしかないし また、そのために出来ることはありったけやらないといけませんね。。 http://tempo01.blog76.fc2.com/tb.php/11-61035f94 * トラックバック *
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