--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012
04.27

日本の主権回復から60周年

Category: 政治・社会
(やや突貫で書いてるのでしっかりした事実の再確認が不足してるかもしれませんが、今日書かないでいつ書くのだ!と。訂正や追加は後日時間がとれたら書きたいと思います。)

明日、28日は1952年4月28日に連合国・アメリカの占領から主権を回復して60年の節目になります。

現在の日本国憲法は日本に主権がない占領時代にマッカーサー草案によってわずか10日間ほどで作られた暫定憲法と言えます。
占領時に被占領国の憲法をいじることは国際法違反に当たりますが、大日本帝国憲法(明治憲法)を消去したわけでなく「停止」して制定されたのが日本国憲法なのだそうで、一応の抜け道をもってやられた訳ですね。
この違法性から、日本国憲法の無効を主張する憲法学者もいます。
被占領国を統治するために暫定的に作られた憲法、そう理解した上で考えると腑に落ちるポイントがあることに気が付きます。
特に国防に関して自主的判断ができない様になってることなど最たる例でしょう。


日本国憲法の欺瞞性は前文に集約されてます。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

どう思いますか?
「われら」とは日本国民ですが、「平和を愛する諸国民」とは誰でしょう?
日本や国際社会の平和を祈念することの根拠が日本国民の意思でなく「諸国民の公正と信義」なのです。
これで良いんでしょうか?
日本以外の諸国は平和を愛していて圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めているそうです。
そして、その諸国に認めもらうことが日本国の名誉なのだ、と。

第2次大戦後、国際社会は「平和を愛する諸国民」でしたか?
日本人(諸説ありますが)100人以上が北朝鮮によって拉致され殺されたり洗脳されてテロに協力させられました。
現在も拉致されたままです。
日本政府は日本人の生命財産を守れず、取り戻すことすら出来ません。
その状況を甘受させ担保しているのが日本国憲法なのだと言って良いと考えます。

経済成長最優先の中で原発の推進も行われました。
核兵器保有でなく原発なら良いと判断したのもアメリカだそうです。
日本最初の原子炉はアメリカGE社のものだったのはご存知かと思います。
(同じ事は北朝鮮でもやられています。北は拒否していますが…この点で自国の利益を自主的に判断してるのは北朝鮮です。彼の国を擁護する気は全く無いけど、一国として当たり前の態度をとっているとは言えます。)
以降、原発は増え続けました。

日本近海に天然ガスやメタンハイドレートなど独自の資源があり、これをエネルギー源とすれば原発依存から脱却できるでしょう。
石油メジャーに握られた輸入にも頼らなくて済みます。
しかし、福島第一の事故の原因究明もそこそこに全原発停止、輸入燃料への依存へ傾いています。
なぜ自前の資源を積極的に開発しようとしないんでしょうか?

これも敗戦国利権の一例でしょう。


このままで良いんでしょうか??


自民党は自主憲法制定を党是として保守政党を合体させましたが、敗戦後の復興・経済成長を優先させるために後回しにしてしまい、国民もいつの間にか「日本国憲法」のままでいる方が都合良く思うようになってしまった。
長きに渡る自民党政権の腐敗は「敗戦国利権」(とボクは勝手に呼んでいる)の数々の弊害とともにあり、国家観の欠如をなんとも思わない、誤った個人主義から来る国民腐敗にも及んでると考えざるを得ません。

主権回復60周年の今年を迎える今、当の自民党は野党に転落しています。
これは果たして偶然でしょうか?
野党に転落しかつての敗戦国利権を貪ってきた政治家から世代交代が促進されています。
与党のままでは無理だったのでは?と思えるほどです。
そんな自民党が「憲法改正草案」を発表しました。
日本国憲法の改正という柔らかい表現に甘さを感じますが、まずは第一歩です。

これを次期衆院選で堂々と国民に主張してもらいたい。

日本を再起動させましょう。




コメント
わが父は、昭和17年にフィリピンで玉砕した。
旧大須賀町の忠霊殿の草刈りをしながら、「遺族会を通じての奉仕も、私の代で終わりだ。若者には、この作業は興味がない」と会員のМさんは言う。
戦死者への追悼は、我々の世代では祖先祭りになり変わっている。米国式の国家による永代追悼にはなっていない。
戦死者は、国が存続し発展するための貴重な犠牲者であるという考えはこの国にはないようである。
尊い犠牲者のことは、我が国では子供・若者にも教えられていない。

鎖国時代と同様に、排他的であることが、自国の独立の唯一基礎となっているのであろう。
我々はどこから来たか、何者であるか、どこに行くかの内容は語られることはない。
この国には、この世界のグランド・デザイン、マスター・プランは考えられていない。
哲学がないから、新しい社会の建設努力はどこにも見当たらない。ただ、世の中の修復と繰り返しあるのみである。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族衰退の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

nogadot 2012.05.02 23:13 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。