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2012
05.03

「感覚と思考・続編:憲法記念日」

Category: 政治・社会
4月17日、石原東京都知事はヘリテージ財団の講演で尖閣諸島を都で買い取る宣言をした。
アメリカ、ワシントンでの講演だった。
ヘリテージ財団は保守系シンクタンクとして米国の政治にも影響力のある団体だそうだ。


この講演で取り上げたのは、環境問題・中東情勢・日本国憲法の問題・東アジア、中国の問題・核武装、軍事問題・尖閣諸島買取り宣言…となってます。
尖閣諸島の話もビックリしたけど、中東情勢において「キリスト教圏の国、米国はこの戦争には勝てない!」と明言したこと。

この話の趣旨は帝国主義時代、文化に対する介入で欧米社会(キリスト教圏)が何をしてきたか…ということ。
「ミッション」という映画をご存知でしょうか?
宣教師の南米での活動を描いた映画ですが、音楽を利用し現地の文化を否定して塗り替えていく様は見ていてとても気味の悪いものでした。映画は現地人と共に戦うことになる宣教師の葛藤をも描いている。
北米、アフリカや南米の占領に始まり中東、東南アジアに進出した欧米が、ソ連と睨み合う中国大陸に至って(大雑把に言えば)第2次大戦に拡大、その後米ソ冷戦、中東戦争へと流れていった。
この一連で歴史を見ないと日本の立場、日本の戦争と戦後も正確に把握できない、ということです。
欧州のナチス・ドイツと日本のアジアでの戦争は全く別種のものなのですが、敗戦後日本で行われた「日本は侵略国家だった」を喧伝するためにナチスと一緒くたにされ間違った認識を広めてしまったと考えざるを得ません。
冷戦時は西側の自由主義を正当化するために、かつての日本を過剰に悪者化し事実と違う喧伝が行われたのです。
いまだに、強い指導力を発揮しようとすると「ナチスみたい、ヒトラーみたい」と揶揄されるのはこうした「戦後教育」の賜物なのですね。

石原都知事講演の全てに通奏低音として「国家国民の主権と文化の独自性」が流れている。
かつての…今も続く欧米(キリスト教圏)の他国文化への傲慢な介入を指摘したわけです。

少々話し逸れますが
Twitterで猪瀬直樹東京副知事でつぶやいてるのが目に入った。関連した話なのでここに挟んでおきます。
「昭和天皇誕生日4月29日は東京裁判でA級戦犯を起訴した日、5月3日の憲法記念日は東京裁判開廷の日、そして東條処刑の日は…。『昭和16年夏の敗戦』の完結編です。尖閣諸島の寄付とともに連休の歴史的意味をいまこそ考えましょうね。」
東条英機処刑の日は12月23日で今上天皇の誕生日です。
日本の祝日にとても祝えない出来事をぶつけて来た連合国のやり方はあまりにもストレートで野蛮に映ります。
戦争から間のない時期の特殊な精神状況だったと考えても、これができる文化的背景は理解し難いものがあります。
…とはいえ「違い」は違いとして受け取らねばすぐにケンカになりますからね。
欧州の文化が科学や芸術で発明、発展してきた良い面もあります。
文化の違いを理解して付き合い方を考えるのが国際交流の基本だそうですし。

閑話休題

そして、この講演の中で尖閣買取り宣言に比較してあまり報道されないのは「日本国憲法の破棄」です。
日本に主権がなかった占領時に明治憲法を否定させGHQの草案を受け入れさせたことは重大な文化への介入で、これが恒久法であれば国際法違反となります。
GHQは占領時暫定憲法という考え方で「日本国憲法」を作らせたと考えれば納得がいきますが、これを日本人が主権回復後も護持するのは道理がありません。
当の米国も不思議に思っていたそうですが、当然でしょう。

主権回復60年の今年でなければ、石原都知事もあそこまで言ったかどうかわかりません。必要に迫られたんじゃないか?と想像します。民主党政権で統治機構の弱体化を国民が実感せざるを得ない今の状況でなければ、この講演がここまで大きく話題になることはなかったでしょう。


さて
今日は「憲法記念日」です。
「日本国憲法」が施行されて65年になるそうです。
日本の主権回復から60年なので、占領下で5年間使われていたことになります。
(改正の必要性は4月27日の日記に書きましたので詳細は省きます)

憲法論議には大まかに4通りあるんでしょうか?
1)改める必要はない
2)(9条は保持し)時代にそぐわない部分だけ改める必要あり
3)(9条含む)改正が必要
4)日本国憲法を破棄して新憲法の制定が必要

大まかに護憲と改憲に分けて両方の問題点を探ってみる。

昨日の「感覚と思考」を援用しますと
1)は感覚的に
4)は思考的に
過ぎると思ってます。
ボクは今の憲法は耐用限界をとっくに超えていて改める必要があると考えてます。
ただ、憲法学者倉山満氏の主張「占領時代に押し付けられたものだから破棄以外あり得ないし将来は日本国憲法など忘れてしまうくらいの逆洗脳が必要だ」は、その理由を説明した上であってもやや原理原則の「思考」に過ぎるかな?と。
(あえて極端な言い方で議論を喚起しようとしてるのかもしれないけどね)
事実の検証や論理は揺るぎ難い堅牢さを得られますが、理解に時間がかかる欠点があります。
「思考」を元にした主張は面倒臭がられて敬遠されやすいですしね…。

対して、いわゆる護憲派の主張は「感覚」的で、現実を無視していたり都合よく捻じ曲げたりする傾向があって既に事実を受け入れて修正ができない状態に陥っていると見て取れます。
4月30日に書いたチャンネル桜の討論でもそうですし、過去の憲法(9条)議論でも事実より感覚が勝った主張が散見されました。
「感覚」は感覚を呼び、一瞬で広がりやすいのですが間違いがあっても修正し難くなる欠点があります。
「感覚」のループにはまり込み、もはや自己修正できない状態に陥った主張には、同様に「感覚」優先の人たちにしか賛同されなくなってしまいます。


「感覚と思考」のバランスをとる方法はないでしょうか?
ボクがベターだと思うのは以下のような2段階の考え方です。
・日本国憲法の成立過程を事実を元に説明し、無効を宣言。
・65年間日本人が親しんできたことに鑑み現行憲法を下敷きに大改正し、新憲法とする。

無効宣言は独立国として不可欠だと思います。
英文を訳した現行憲法は日本語として分かりにいだけでなく不備も多いと言われます。
国民生活や国際社会とのバランスを考えれば現行憲法を元にした新憲法であっても納得がいきます。
白か黒かでないところを受け入れられるのが日本人の良いところでしょうし良いじゃないですか。
如何でしょう?


「感覚と思考」について考えて様々な討論を見たり普段の会話を反芻していると、特に日本人には感覚の自明性を疑わない国民性があるんじゃないかな?と気がつきます。
決して悪いことじゃないんだけどね。
アニメーターとして仕草を観察する時、日本人の身振り・表情の少なさもこの特徴が影響していると気が付きます。
外国人が顔の表情や手のひらを見せたり握手したりハグで敵意がないことを証明するのは、その必要があったからでしょう。
文化の違う民族が陸続きに交わる中で培われたものなのかな?と。
日本人同士にはそこまでしなくても感覚が共有できるので表現が控えめになる。
「止め」の会話が通用する日本のアニメはそういう風土でこそ育ってきたんでしょう。
なので、感覚が共有できない時にやっと使われるのが大きな表情や手振り身振りだと考えて、会話がうまくいかない時とか焦りの表現に使えたりする訳です。

察しと思いやり。
謙虚さ。
譲り合いの精神。
相手と感覚が共有できることを前提にした特徴です。
日本人の美徳だと思いますが、外国には通用しないことなのも受け入れざるを得ません。
そして、感覚の共有ができないと一転して拒絶反応を示してしまう欠点もある。と。

こういう政治的な話(に限らないけど)ネットでよくある「レッテル貼り」も感覚を刺激するものですね。
感覚で賛同を得ようとしたり拒絶反応を起こさせ思考を封じるのに便利です。
いちいち例示しませんが、掲示板やTwitterのような短文形式では印象付けを狙うためにレッテル貼りが起こりやすい。
こういうのに乗りたくないし、自分はやらないよう心がけねばと思います。
このブログのように長々と書かないまでも、必ず5W1Hのうち「なぜ?・どのように?」だけでも思考して書くように。

「日本国憲法は平和憲法だ」
「憲法9条を改正すると日本が戦争をする国になる」
「改憲論者は右翼である」
長らく憲法改正論議に貼られてきたこのレッテルをそろそろ剥がさねばいけません。


自民党が「日本国憲法改正草案」を出しました。
現行憲法との対照表記になってるのでわかりやすい。
他にもたちあがれ日本とみんなの党が草案を出しています。


5月3日が押し頂いた「憲法記念日」じゃなく、別な記念日を自分たちで決められることを祈って。



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