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2012
08.06

「8月6日と9日」

Category: 政治・社会
日付が変わって6日になりました。

1945年8月6日、午前8時15分。
米軍は広島市の相生橋上空580メートルでウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を炸裂させ、約14万人を死亡させた。

同年、8月9日、午前11時2分。
米軍は長崎市の浦上地区上空503メートルでプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を炸裂させ約15万人を死亡させた。

米軍が開発したウラン型、プルトニウム型の二種類の原爆が実戦使用され、合計29万人が死亡、生存者もその後長らく放射線被害に苦しんだ。
この絶大な「実験」結果は後の冷戦構造と核兵器拡散につながっていった。



米軍による日本本土への空襲は、本格化した1944年中頃から翌年8月15日の降伏まで続けられ、200以上の都市で合計33万人以上を死亡させた。

戦闘でなく、二発の原爆を含む空襲だけで62万人以上が米軍により死亡させられたことになるが、一連の空襲で特筆すべきは、軍人でなく軍事施設に絞ったものでもなく民間人を標的に行われたことだ。
まさに人類史上最悪の大量殺戮である。

二発の原爆投下をアメリカは「戦争を終わらせるため」と説明してきた。現在でもその態度は変わらない。
戦争が継続しさらに死傷者が出ることを防いだ、というのがアメリカの言い分だ。



これより前の3月10日、東京大空襲では夜間爆撃だったため空襲は2度に分けられたという。
一度目はテルミット焼夷弾という照明弾の役割で続く大空襲の目印のため。
二度目は銃火器を外してまで満載された焼夷弾が使用された。
日本家屋を効果的に焼きつくす目的に適していて、これにはアメリカ側で木造家屋を立てた爆撃実験で効果を確認した上だった。
尚、一度目で円状に爆撃し住民の退路を絶ち二度目でまとめて焼き殺す攻撃だったとも言われるが、wikiによるとこうした攻撃指示は出されておらず被害者の印象による誤解と書かれている。
当時は日本側の防空能力低下で迎撃される恐れがなく銃火器を外した爆撃が可能、つまり一度で十分だったにも関わらず二度の連続空襲をパニックに陥りやすい夜間を狙って行った合理的理由は何であろう?


日本全土への空襲は中小の軍需工場への爆撃という理由が付けらていたそうだ。
昔はボクの実家周辺にもよくあった民家と変わらない町工場を住民ごと焼きつくすことが戦時国際法に則った正当な軍事行為だったとはとても思えない。


7月26日に出されたポツダム宣言を日本政府は「黙殺」、これによって原爆投下につながったと言われる。
これは、鈴木首相の「ノーコメント(今は決めない)」の意がアメリカ政府に伝わる過程で「答えない」→「無視」→「黙殺」→「拒否」と曲解された事情があるそうだ。
戦争継続には政府や軍部でも賛否があり(当時の新聞が書いたような「一億総玉砕」ではなかった)板挟みになった首相は曖昧に答えざるを得なかったという。

最近も永田町の方でよくある話だ。
「状況を注視する段階であり、お答えは控えさせて戴く」みたいな文言だったのかな?


原爆は日本の降伏が遠からずあると予測される状況で、7月16日に行われたトリニティ実験の一度だけで実戦投入となった。
実験を重ねている間に降伏されたら原爆を使えなくなってしまうと読んだのでは?と勘ぐってしまうが、現代ほどの情報網がない時代を考えれば「とどめを刺すため」という意図だったのはギリギリ理解できなくもない…が作ったものを使う折角のチャンスと実行を急いだのではないか。


計画が進む中、原爆投下予定地は「爆発の効果」を確かめやすいよう空襲が禁止された。
予定地は京都、広島、横浜、小倉(優先順)だった。
京都への原爆投下は、当地へ赴任経験のある陸軍長官が「文化財が多いこと」「歴史的な街が破壊されたら反発が強くなり戦後処理がめんどうになる」などの理由で反対したそうだ。

最終的に原爆投下予定地は広島、小倉に決まった。
「広島」は計画通りに投下。
小倉は航行ミスと悪天候で予定を九州での第二候補地「長崎」に変更し投下となった。

3発目も計画されていて「京都」に投下されていた可能性もあったそうだが日本の降伏によって免れたという。

戦争末期の都市部には働き盛りの男は戦地へ出ており、女子供と年配の者が多かった。
「はだしのゲン」では戦争中とはいえどこか呑気な生活が冒頭描写されている。その後の惨劇との対比を演出してるのかもしれないが、内地は空襲のある都市部以外は意外と普通に暮らしていたとも言われる。

空襲もなくこのまま戦争が終わるのかもしれないと普通に暮らしていた人々の頭上に原子爆弾は炸裂した。



「安らかに眠って下さい 
過ちは 繰返しませぬから」

原爆死没者慰霊碑にはこう刻まれています。


日本人は自然災害によって大勢の人が亡くなる経験を積んできた。
去年の東日本大震災を越える地震津波も何度もあったという。
災害の度、復興し、備えてきた国民です。
港湾も河川も田園風景もただ美しいだけでなく防災も念頭に作られた「人口の自然」が日本の風景。
それは避けようのない自然災害に対して多くの被害が出ないよう積み重ねられた知恵。
備えあれば憂いなし。
備えを怠る「過ち」はあってはならないのだ。

ボクはこの碑文にはそのような、ある意味日本的な感覚を感じます。
悪いのは私の方ですと言ってしまう日本人らしい控えめで慎み深い言葉だと受け取れなくはありません。
同じ文化を持つ同士なら美徳にもなりましょう。

しかし、日本の戦争が仮に他国への侵略行為だったと百万歩譲ったとしても
欧米のそれと比較してどうだったのか問うた上での言葉だろうか?
ざっくり言って15世紀頃から植民地時代-帝国主義時代を築き、欧米列強が支配した東南アジア諸国は日本の戦争を支持してくれています。
東京裁判でも戦勝国の傲慢さを説いたインドのバル判事なども居た。

戦争史を多少でもかじればそのことは分かってきます。
もちろん日本が戦時中にやったことを全て肯定することはできませんが、戦争による災禍を自然災害のように捉え、諦め、目耳を塞いで不徳のいたすところと唱えることには賛同いたしかねます。

控えめで慎ましい、などと言っていられません。


米軍が、人類史上最悪の兵器二発を民間人に使用し大量殺戮を行った。
この事実を、割引かず割増もせず、ありのままに言わねばならないと思います。

言えるようにならねば、と。





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