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2012
10.29

「寝てる子は誰?」

Category: ひとりごと
魯迅、という中国の小説家がいました。
日清、日露戦争の時代。中国は大清国の時代。

岩波書店から出ている文庫の”自序”の中で、魯迅は何がしかの「提唱」は賛成されれば前進を促し、反対されればなにくそと奮闘する。しかし反対も賛成もされない場合の孤独感は荒野に立つが如しで、それを「寂寞」と呼んだ。
それは、祖国の人民の状況を憂いでのことだった。
しかし、寂寞を越えてなお英雄のように振る舞うことは出来なかったとも。
そんな時、雑誌を作っている古い友人から何か書いたらどうかと言われた。魯迅は、誰からも相手にされない「提唱」をしているこの人もそんな寂寞に陥っているのかと思ったそうだ。
魯迅は友人に対してこう言った
「仮にだね、決して破れない鉄に囲まれた窓一つ無い部屋があったとしよう。中には熟睡してる人が大勢いる。放っとけば皆窒息して死ぬだろう。だが、放っとけば苦痛を感じずに静かに死ねるじゃないか。いま、大声で何人かを起こしたとして、この状況でどうせ助かりっこない苦しみを与えながら死に至らしめることになるが、それを気の毒とは思わないのか?」
友人は答えて
「しかし、数人が起きれば鉄の部屋を壊す希望が絶対にないとは言えんじゃないか」と言った。
魯迅はたしかにそれは否定出来ない。と考えて有名な「狂人日記」を書いた。
「吶喊」としてまとめたそれは、確かな回答などではなく苦悩から出る「表現」だったのだろう。


目覚めるのを怖がる「空気」。
お互いが目覚めないよう監視し黙らせようとする社会。
敗戦後の日本とも一致する。
目を覚まされないように硬く目を閉じ寝たふりをしてジタバタする姿がマスメディアを通じて見えているのではないか?


恥ずかしながら「狂人日記」はじめ魯迅さんの小説はこれから読むところです。
しかし、始まる前の序章である”自序”でいきなり重いパンチを食らわされてしまいました。

諦めは表現の自殺だ。



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