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2012
12.07

「なぜ今『民主主義とは何なのか』なのか」

Category: 政治・社会
選挙があるからです!
というのは後付ですが、この本を読み始めた時には思いもよらなかった衆議院選挙が12月16日に投開票となります。
ボクはまったく大げさでなく、日本の命運がかかっていると思ってます。
そんな時期、ようやくこの本を読み終えました。
民主主義国だからこその「選挙」 それが正常に、まっとうに機能する前提は?

民主主義とは何なのか (文春新書)民主主義とは何なのか (文春新書)
(2001/09)
長谷川 三千子

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『民主主義』というと「良いもの」「自由主義社会の基本」「独裁・全体主義の逆」と思いますよね。
ところが、この本を読めば、それはとんでもない間違いだとわかってきます。
社会科で習う「日本国憲法」前文に示された三大原理「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」そのことごとくが欺瞞に満ちたものであることが…。

そんな恐ろしい事は知りたくない?
でも、今の憲法はその恐ろしいことを基準にしているのです。

どう恐ろしいかは、詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、その歴史をざっくり書くとこんな感じ。(長いけど)


古代ギリシャでは、ガイアという女神から頂いた天や海や山々(土地)を荒廃すること無く平等に分配するために「民主政」が作り出され、人と土地と神々が一体となって社会を形成しようとした。
ずっと後の古来英国ではイエス・キリストの下、人民が平等であり、神の意思を人々が議論して公平公正な社会を作ろうとしていた。
ガイア・神の声を聞こうとする努力(義務)の対価として自由や権利を得ていた古代の人々。
神々と歴史と人々の叡智によって平穏な社会を作ろうとするもの。
古来の「民主政」

それがフランスに渡っ時、大きなズレが起きた。
時は革命前夜であり、神をも否定する社会契約論が生まれた頃。
ガイアも神もそこにはなく、権利の根拠は人民にすりかわってしまったのだ。
そこには義務はなく、一方的な権利のみが残った。
かくして、神になり代わった人民により、王権を倒すため「民主主義」「人権」は大いに活用され、王だけでは飽きたらず人民が敵と思えば殺戮してOKということになってしまった。
「権力者対国民」の構図から人々を束ねる「民主主義」が力を持ってしまった。
「民主主義の敵だ」といえば何をしても無罪だったのである。
(「共産主義」「独裁・全体主義」は国境を超えて発展した「民主主義」の傍流なのです)
しかしこの頃の人々は「はなはだいかがわしい民主主義」という認識を持っていたという。

時代は下り、「民主主義」はついに「良いもの」に転換し、国際基準となります。
第一次世界大戦
国家観、民族の違う多国が敵(ドイツなど)との戦いを正当化するために持ちだされたのが「民主主義」
フランス革命と同様、基礎的共有概念のない権利の一方的行使に活用されたのです。
この都合の良さに「いかがわしき民主主義」などという認識は吹っ飛んでしまったのだ。
この時、国際舞台に踊りでたのがアメリカでした。
以後、アメリカは、そんな「民主主義」を大いに活用することになります。
第二次世界大戦、アジアでは日本が「世界の敵」として一方的に断罪されました。
アメリカが「世界の警察国家」となった背景にこうしたイデオロギーがあると考えればすんなり納得できます。

本書冒頭にある「いかがわしき民主主義」という言葉の意味はこうしてざっと眺めただけでもわかってくると思います。
一見、良さげに見えるそれは「闘争」と切っても切れないものであり、とても平和的なものではないのです。

では、この本は「民主主義」を否定しているのか? そうではないと思います。
ホッブズが実験的に考えた社会構造における「自然権」とその「放棄」の概念。
そして、ジョン・ロックによる「自然権」の誤った方向付け。
そこから本来あるべき「民主主義」の姿は見えてきます。

ホッブズは「自然権」をこのように設定した。
人は誰でも闘争本能を持ち、自分が殺されないために誰をも殺す権利を持つ。
強い者がいればこっそり寝首をかくこともその権利のうちである。
「次から次へと力を求め、死によってのみ消滅する、永久不断の意欲」を持つのが人間だ、と。
…つまり弱肉強食より酷い世界観だ。
そして
「自己の生命維持のための権利が、かえって生命の相互破壊をもたらしてしまうから、その「自然権」を相互に放棄することによって安全な「社会状態」を作り出さねばならない」
そこには古来からの叡智や秩序を基本とした人間の工夫、理性が不可欠なことが示唆されている。
相互に放棄する」とはそのような意思によるものですね。
ここからわかるのは
『まっとうな「民主主義」』が成り立つには、その前提に、人が持つ闘争本能(感情論)を押さえ、理性を持って議論を重ねる意思があってこそなのだ、と。それで初めて正常に機能するということなんですね。

決して、「民主主義」自体が「良いもの」でも「正しい」ものでもないのです。

どこで誤りが生じたか
「自然権とその放棄」の前提となる世界設定「自然状態」を、ロックは「人が相互に殺し合う危険性」を無視し「自分たちは良い子」であり「敵は自分たちの外にある」と設定してしまったのだ。
とんでもない独善である。
それではとても正常な理性も議論も起こらないように思えます。
これでは「感情論」や「空気」を抑えることはできません。
自分たちは「善」で自分たち以外が「悪」だと考えることになってしまうからです。
そして、この独善的概念を輸入して作られたのがアメリカ「独立宣言」だった、と。
とはいえ、アメリカは宗教心の強い人達が作ったため「神との会話による義務と権利」が自然に担保されたと言えそうですが、先住民排斥の歴史や多民族を束ねるアメリカにとって「民主主義」は好都合なシステムだったとも言えるでしょう。
…敵を設定しさえすれば、ね。


「民主主義」には議論がつきもの。

なんだ、アタリマエのことじゃないか。と思うでしょう。
しかし、人々が感情を煽り合い「空気」に流され束になって「民主主義」を振りかざし始めたら、もうわからなくなります。
日本人も71年前の明日12月8日、国民は日米開戦を支持していました。
「マスコミに煽られたから」?「大本営発表しか知らされなかったから」? 
それもあったでしょう。
しかし、当時の新聞が伝える日英、日米、東南アジアの報道は少なからず史実と一致し、当時の外交を痛切に批判する本も立派に刊行されていたことが戦後焚書になった書物(国会図書館や古書店でGHQによる廃棄を免れた)の分析でわかっています。
にも関わらず、なぜ?と思わずにはいられません。
日本は負けました。
そしてそして、後になって「日本の戦争は自衛戦争だった」と認めたマッカーサーの草案により作られたのが「日本国憲法」なのです…

おあとがよろしいようで…


とは行きません!
ここからは本で触れてない部分。この日記の核心です。
思い出してみて下さい。
ボクたちの日本はどんな国でしょうか?
読み返してみて下さい。
古代ギリシャが生んだ「民主政」の土台は日本に似ていませんか?
戦後それを否定された日本はプチ・フランス革命状態ではありませんか?
「日本独自の民主主義」はある。
ただ、忘れられているだけです。

「憲法」とは本来文字に書かれないもので、成文のものは「憲法典」というそうです。
ボクたちが共有している「嘘をついてはいけない」「食べ物は粗末にしてはいけない」「おじいさんおばあさんを敬おう」こうしたものが「憲法」の祖なのだと思います。
ホッブズが設定した「相互に放棄する」は、日本人の「察しと思いやり」に当たるのでしょう。
この日本の道徳観は独特なものであって、すべてが世界標準にはなり得ないように、他国の歴史・文化から生まれたものは移植不可能なのです。

「日本国憲法」はフランス革命前後から出来上がった西欧の「いかがわしき民主主義」を基礎としています。
しかし大陸を舞台にした恐ろしい歴史の末にようやく得た叡智、理性と議論によって成り立っている。
ガイア・神を基礎としないボクらの日本とは尚更 相容れなくて当然なのです。
齟齬が生まれて当然なのです。
現代社会に次々起こる不可解な事件、モラルの低下、悪しき個人主義、政治の腐敗…。
それを「みんな憲法のせいだ!」とは言わないまでも、遠因として拭い切れないと思っています。

「成立過程ではなく中身でみれば良い憲法だ」
そんな意見を目にすると、本当ですか?と問いたくなります。
成立過程だけが問題ではないんです。九条だけでもありません。
「日本国憲法」は自ら戦争を検証し反省を刻んだものですか?
日本人が持つ歴史・文化、道徳観に合った独自の憲法典が必要ではないですか?


「日本国憲法」の放置は、単なる「憲法問題」ではおさまりません。
自国文化への謙虚さを60年間もおろそかにしてしまったのではないか。
それがどんな結果をもたらしたのか。
この本を読みながら色々と考えを巡らしました。

そして『まっとうな「民主主義」』を発動させるためにも
12月16日
虚心坦懐、候補者の声を聞きに聞き、考えに考えて、一票を投じましょう。


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