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2013
01.06

伊勢神宮参拝

Category: お出かけ
〜目に見えないが故の真実〜

1月5日に伊勢神宮へ行って来ました。

目的地だけが決まっていて旅程はほとんど思いつき。
実家の愛知県豊川から最もおもしろかろう道を選びました。
すなわち
豊橋鉄道渥美線〜豊鉄バス〜伊勢湾フェリーで鳥羽へ、そこから近鉄で伊勢市へ という行程。

IMG_0993.jpg
内宮の宇治橋と宇治橋鳥居


伊勢神宮は皇大神宮(内宮-ないくう)と豊受大神宮(外宮-げくう)、その別宮、摂社、末社、所管社の合わせて125の宮社の総称。
宇治山田 一体が巨大な神宮というわけですね。実に壮大です。

IMG_0963.jpg
外宮の正宮

内宮には天照大神がまつられ
外宮には天照大神の食事を司る豊受大神がまつられていて衣食住と産業の守り神とされてます。

伊勢神宮そのものでなく、参拝して感じたことを書いていこうと思います。



神宮内の社殿には写真ように入り口正面に目隠しのような板塀が設置されてるものがあります。
たくさんある社殿にはこのように板塀があるもの、幾重もの塀に囲まれて扉の奥が見えないものばかりです。
中に何があるかはっきりわかるものは一つもありません。
神社でお祓いを受けるときに社殿に入るけど、特別な神々しい何かがそこにあるわけでもない。
寺院の仏像やキリスト教の十字架などのように具体的な「何か」があるのではなく、隠されていて見えないのです。
だいたい、神社は小さいものでも雑木林に守られていて外から見えなくて鳥居があるから神社だとわかるのが多くて、ただの森だったり山だったりですよね。
伊勢神宮は外から見れば、ただ大きな森があるだけ。
教会のように明らかにそれと分かる形にはなっていないですよね。

神宮を巡りながら、この「隠されていて見えない」ところに日本の宗教観、文化観、価値観、日本人の気質を形作る秘密があるのでは?と思うようになりました。
ボクは神社仏閣が好きで引っ越したら必ず近所の神社に参拝するし京都・奈良の寺院にも何度でも行きたいと思う方なんですが、今までは神社の中には「何かがある」んだろうと思ってました。
でも、紀元前四年に創建された内宮にもその500年後に創建された外宮にも、近所の神社同様まつられている神様は明らかであっても形はないのです。

なぜだろう?

なぜ隠されているんだろう?

砂利を踏みながら樹齢の見当もつかない大木や、神が宿るとされた古い石を見て歩くうち
「そういうことか…」と思い至りました。至ったというと結論ぽいですが推測、勝手な考えですがかなり確信に近い感覚に。

「何か」が形に現れていて、それが見えるようになっていれば「神様」はそれそのものになってしまいます。
その形じゃないものは「神様」じゃなくなってしまう。
つまり
八百万の神々がボクらの住むこの世の全てにあって、そのおかげで生かされているという感覚はその中心となる神宮の「何か」が隠されていることによって信じられる。
山や川や石や木や生き物食べ物スゴイ人物スゴイ作品…八百万の神が宿ることを感覚的に理解できることの大本が「隠されて見えない」ことから浸透してきたのではないか、と。

20年に一度の式年遷宮が千数百年間行われてきた歴史と、そこから生まれてきた文化、人々の意識というものの根っこの根っこに「見えないこと」を尊ぶ精神があるのでは? と。

そして参拝に集まる人たちを見ていて日本人とは?なんてことも考えてしまった。
日本人を揶揄する時「みんなで渡れば怖くない」と言ったり、「みんながやってることをやろうとする」ことを悪く言うことがあります。
悪い方向になった時、戒めとして言う気持ちはわかる。
でも、あえてそれこそが日本人なんだろう、と前向きに捉えたいと思った。

神宮には昼前から参拝客が増え、石段も行列が絶えませんでしたが、石段の端はなぜか二人分くらい開けて並んでるんです。
エスカレーターのどちらか片方を開けるのに似てるんだけど、エスカレーターが先じゃなくて元々そういう感覚があるのかもと思った。
道いっぱいに広がって行き来の邪魔をすることもない。
御札を買う行列に横から入ろうとする人もいない。
我先にと、自分本位に動くのでなく、自分以外の誰かの気持ちを慮ろうとする感覚。
大災害でも暴動を起こさず援助や配給も行儀よく並んで受け取って外国人を驚かせた日本人の国民性。

日本人は本来(本来と書かねばならないくらいには、この感覚は薄れてしまってると思うけど)ルールブックに書かれてなければ何をやっても良い、などとは考えませんよね。
大声で主張せず、人と人が大事にする「何か」を察し合って、その感覚を大事にして行動します。
それが日本人ですよね。

その中心には連綿と続いた神々の歴史あった。
それを二千年以上代々受け継いだ皇統の歴史は尊いものだと。
イデオロギーのバイアスなしに、もっと自然にまっすぐ感じられるようになれば良いと思いました。



伊勢神宮のほんの一部だったけど、歩きまわって感じたことはここ数年 心に引っかかっていることでした。
「伊勢神宮に行こう」年末からそう強く思うようになったのはヒントが欲しかったからかもしれない。

見えざるものを心の中に持っていることが、見かけ上のルールが壊れても乱れない強さに繋がっている。
憲法問題の根底にあるものです。
本当は帝国憲法すら日本人の気質、伝統文化にそぐわないのではないか?
文字で書かれた目に見える憲法典よりも、見えない大切な物がある。ということを再認識した気がします。

東日本大震災。
政治不信のピークになった民主党政権。
そんな時でも決して暴動を起こさない日本人を揶揄する向きもあったけど、それが日本人だ。
不満は述べてもそれぞれ良い方向に行くようがんばろうとすることは尊いと思う。


平成二十五年、2013年は20年に一度の式年遷宮が行われる年。
遷宮は禊の意味もあるという。
新しい社を保って魂の新鮮さを永続させるまつり。

偶然といってしまえばそれまでだけど、バブル崩壊後の低迷から約20年。
見かけは腐ったかもしれないが、魂さえ健全であれば日本は復活できるに違いない。
まだ間に合う。

IMG_0971.jpg
五十鈴川御手洗場

お伊勢さん参拝して、今年は本当に良い年にしようと改めて気を引き締めました。



コメント
私は三重県在住で、家の近くに皇大神宮別宮「瀧原宮」があるんですが、元旦はそこで初詣を済ませました。例年より格段に人出が多い上に若い人が多く、若者の意識が変わりつつある事を感じて嬉しくなりました。

「何もない」場所を「何かある」ように感じさせる事、「見えない」ものに「見える」もの以上の価値を見出す事、これらは日本文化全体に通奏低音のように響いている価値観だと思います。
例えば絵画などでは、西洋絵画のレイアウトはモチーフがぎっちりと整合的に詰め込まれていることが多いのに対し、日本の襖絵や絵巻物のレイアウトは余白や霞がかった空間を大きく捉えています。これら余白は何も描いていないのではなく、画面の均衡ある輝きや神秘性を生み出すのに不可欠なものであると考えられます。

日本人は「何もないこと」「見えないこと」の裏に熟慮を秘めています。

将来、憲法改正が現実となる時、維新などの勢力による斜め上の改悪を阻止するためにも、十七条憲法くらいあっさりしたものが議論されても良いのかもしれません。
いろはにdot 2013.01.07 03:17 | 編集
*いろはにさん
いつも示唆に富んだコメントありがとうございます。

帰り際、タクシーの運転手さんに別宮がたくさんあることを教わりまして、月読宮を勧められました。
伊勢神宮は奥が深いですね。
今度行く時には瀧原宮にも行ってみます。

>「何もない」場所を「何かある」ように感じさせる事
仰るとおりだと思います。
日本の伝統絵画から連なるアニメの絵柄は輪郭線がしっかりあります。
この場合はないところに線を描いてるんですが、実は線で表現する事によって様々な要素を省略しているんですよね。
立体でなく面で考える発想と3D的に複雑な欧州の建築物と日本の面と線で組み合わされた建築物との違いを見ると、これも関連あるのかな?と思います。

音楽の間にも似たようなことを思います。
ボクはフィンランドのシベリウスが好きなんですが、彼の音楽にも日本的な間合いを感じます。

語りすぎないこと、というのは本職のアニメでは意識するんですが本当に難しいです。
なかなか巧く行ったことがないんですがハマると見えている画面や音響以上に雄弁な空間が作れるのでやめられません。

>将来、憲法改正が現実となる時
革命的な変更にならないよう注意が必要ですね。

現憲法はGHQが日本人の手足を縛るために必要以上の条項を詰め込んでいると言われます。
去年話題になった「自民党は人権条項を削除しようとしている」とネットで騒がれていた件も、ほとんど同じ意味の条項が二つあるのを一つに絞る案を出したに過ぎないわけで。
ダブリや誤字まで一字一句変えるなというのは思考停止です。

憲法典は国柄を規定して国際的にも理解してもらえるよう最低限必要なものが書かれていれば良いと思います。
それは日本的な間合い感も含めて「日本とはこんな国です」と示すことになるわけで、憲法論議というのは9条がどうしたという個別論が先に来てはいけないと考えてます。
日本人であるボク(や あなた)の感性が外国のそれと違うように、私は私ですと示すことに躊躇するとしたら… そう考えれば自分たちの手で憲法典を作り直そうというのは過激な話でもなんでもなく、むしろ(GHQが作った)現憲法を変えてはならぬと言う方が乱暴に思えます。

まず意識の持ちようからやり直す必要があるので2年、5年で実現できることとは思えません。
ゆっくりとやっていくのが良いのでしょうね。
ヒラマツdot 2013.01.07 21:49 | 編集
こんばんは。伊勢神宮に行かれたんですね。私もまた神宮に参拝したいです。羨ましいw

〉八百万の神々がボクらの住むこの世の全てにあって、そのおかげで生かされているという感覚はその中心となる神宮の「何か」が隠されていることによって信じられる。

やっぱりアニメーターさんは感性が鋭いんでしょうね。逆にそういう優れた感性がないとお仕事にならないのでしょうか?鎌倉時代のお坊さんの西行さんも同じように感じていたようですよ。彼が神宮で詠んだ歌が…「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけ無さに涙こぼるる」ですから。

神社は本当に不思議な空間ですね。世界中で日本にだけ神道が残っている。大昔には、ドイツでも巨木信仰があったけど、キリスト教を受け入れる時に木々を切り倒して信仰を捨ててしまっています。今でも世界中の少数民族の素朴な原始宗教では、大地を祀ったり、山を信仰したりしていて、そのまんま神道っぽいのですが、素朴すぎて系統立ってない。それに対して日本の神道はすごく整ってる。祭も豪華に進化している。神職が行う日々の祭礼も洗礼されている。古事記をベースにした神話もある。その神話の神々も全国規模でストーリーがゆるやかに繋がっている。だからといって、一神教や仏教のように「人工的」な臭いがすごく少ない。

これは私の憶測なのですが、本来あるべき信仰の形とは、何もなければ世界中がどこも一緒だったのかも。そしてその信仰が正しく進化すれば、それは全て神道と同じになっていたのかも…そう考える時があります。現実の世界では、一神教に潰されまくったので、今に残っているのは、わずかに日本の神道と、秘境の奥地に身をひっそりと寄せ合うような部族の原始宗教にのみ…とか。


キリスト教は偶像崇拝を禁止しているけど、マリア信仰っていうのがあるし、仏教もどうしても仏像に寄り添ってしまう面もあります。その点、神々が
存在してても決して具体的な形には現れず、憑代(よりしろ)に鎮座して頂く神を想像するしか手段がない神道は、逆にとっても神々を意識させるのかもしれませんね。

kou-koudot 2013.01.08 00:56 | 編集
平松さんがtwitterに貼られている音楽動画をいつも楽しませてもらっています。^^

シベリウスについては不勉強で専門的でない感想しか言えないのですが、(^^;)

答えのない美しさ、とでもいうのでしょうか。
それは、自然が持っている答えのなさとも通じます。

「春の歌」は平松さんがワーグナーに似てるとおっしゃったのが、なるほど!と思いました。
透き通ってきらめく高音、雄大で温かい低音、歌っているのは風景なのか、物語なのか、感情なのか。
「タピオラ」はさらに深くそれらが展開し、なんともいえない音の間をたゆたっているのですが、感情はそこに引き寄せられます。

西洋におけるロマン主義的傾向は絵画においても見られ、中でもドラクロワは好きな画家なのですが、他にもフュースリ、ターナー、その後ラファエル前派や象徴主義に派生して、ジョン・E・ミレーやビアズリー、ルドン、シャヴァンヌ、そしてムンク、ロートレックにまでその精神は受け継がれています。
19世紀以降は、彼らは日本美術に賛意を示し始めます。

西洋人でも内省的な人達は、日本のように省略したり、とても素晴らしい仕事をする人が多いですよね。
いろはにdot 2013.01.08 17:14 | 編集
18世紀後半、イギリス産業革命、アメリカ独立戦争、フランス革命、
これらがほぼ同時期に起きました。
人間の理性に基づけば、全てを改変し設計できるという傲慢さが、近代合理主義という怪物を生み出します。
そしてフランス革命という血生臭い暴力を経て、ロマン主義も開花しました。
19世紀西洋の音楽や美術が、今なお我々に現代的な響き・輝きの印象を与えるのは、その方法論が現代的だからだといえます。
近代合理主義の価値観は現代においてもまだ、我々のものさしであり、ゆえに19世紀は、「現代」と称しても構わない程、生々しいのです。

フランス革命を批判したエドマンド・バークの思想は井上毅を通じて明治憲法に反映されていますが、それは、バークの思想に日本人が共鳴したことの表れです。
保守思想は必然的に見えざるものへの敬意を含みます。
思想は体系であり、芸術は型である、とすると、
型とは伝統を保守することであり、よって芸術は一種の地域性・国柄・ナショナリズムを帯びることになります。
シベリウスがとった、北の大地へ愛着や畏怖の念を抱いたり、民族の音を追求したりといった姿勢は、見えざるもの、祖先への敬意なくしてありえません。

日本はそういった伝統が非常に強い国柄でしたが、やはり近代合理主義において分裂しました。この問題の克服は、容易ではありません。
そしてこの困難な戦いは、安倍政権の今、まさに目の前で起こっています。
いろはにdot 2013.01.24 17:38 | 編集
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