--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2013
12.11

「人の営みの積み重ね」

Category: ひとりごと
前回の投稿の補足として少し漠然としたことを書きます。(いつも漠然とした書き方ですが)

IMG_2016.jpg
松山空港へ向かう飛行機から見た瀬戸内の景色。
グーグル地図で探したところ広島県の佐木島のようです。
写真上が三原市ですね。

ここまでの大俯瞰だと島の形のおもしろさや国土の70%が山であるってことをつくづく実感することになるんだけど。
国内線に乗ったら山を見てみてください。ほとんどの山に道路があり、深い山にもいつ作られたかわからないような山道があります。
日本の国土の殆どには人間の手が入っているんですよね。

ものを見る意識
というのは職業上、形や状況のおもしろさだったり使われ方のおもしろさを観察することが多いです。
地べたを歩くと大俯瞰では見えないディテールが見えてきます。
とはいえ超ミクロな画面もアングルとしては俯瞰になることが多いんですけどね。
物事を俯瞰して見る、なんてのも単に立ち位置の問題でどこまで引けば俯瞰したことになるのかキリがないです。


前回の投稿のように国家観なるものを意識するようになる前から、日本の建物の形や構造、佇まいが好きだったし、鉄道の周辺にある構造物が好きで、そこに人の営みがあることに興味を惹かれていたように思います。
宮崎駿さんの仕事に出会って、戦車や飛行機のメカニカルな興味だけでなくそれを使う兵隊たちや戦争の背景に興味を持つべきだという(何かのインタビューだったと思う)言葉にも影響を受けました。

都会に住んでいると人工的な四角四面の空間に慣れてしまいます。
この場合の「人工的」というのは、言うなれば手作り感がないというような意味ですね。
いわゆる日本的な場所、人の営みを感じるにはに田舎に行くしか無いのか?というとそうとも思えません。
銀座であれ、新宿であれ、六本木や赤坂でも戦前・戦後からの継承を観察できたりします。
東京は関東大震災や大空襲で何度も壊されているのでそれより前のものはなかなか見つけにくいけど、独特の地形が造る古い石垣や江戸時代(?)に引かれた用水、坂の名前が書かれた道標などが街角に立っていたりして人の営み、手作りの町を想像する手がかりになります。

国家観、というのは人の営みの積み重ねから、積み重ねを実感する気持ちから生まれてくるのだろう、とも思います。
自分だけでは成り立たない社会、という当り前のことが、コンビニにいけば食べ物も生活用品の多くも誰とも会話を交わさずにお金さえあれば入手可能な生活からは実感できそうにありません。(経済やビジネスに興味あればコンビニも別な見方ができるようになりますし、何よりとっても便利なのは確かですが)
好きな仕事を選びさえすれば、好きな仲間たちと居さえすれば、それ以外の想定外と関わらないで生きて行けてしまうのが現代で、特に都会なのでしょう。
そこに居続けたら、国家観なんて考えなくても済むし必要ない、むしろ心地よい「今」を壊すものじゃないのか?という猜疑心を膨らませるのも無理は無いように思います。

ただ、それも、じゃぁ田舎の暮らしをしてみろ。という話ではないんですよね。

「国家観」って?
親が怪我をしたり病気で入院したりして今年は実家に帰る日が多かったんですが、子供の頃遊んだ神社や線路の周辺を歩くと昔あった洗濯場がなくなっていたり田圃がマンションになっていたり、逆に神社には昔はさっぱりわからなかった御祭神の札が新しくかかっていたりするのを発見出来ました。
都会に出なければ気が付かなかったことかもしれません。
神社や神道に興味を持たなければ神社の由来書や新しい注連縄やよじ登った木が神木だったことなんかも理解できなかったでしょうし、そういった取組みに人の営みがあることも想像できなかったでしょう。
そういった古来から受け継がれた小さな一つひとつが「国家」という感覚を造っていることにも、気が付かなかったように思います。

戦後の日本では「国民国家(Nation state)」は否定され「市民(People)」の集合体のように考える傾向が強まりました。
個人が重視され国家は小さいほうが良く無くても良いのだという風潮が今もある。
それは人の営みの積み重ねを否定するような気がしています。少なくとも人の営みの積み重ねを意識しなくても生きていけるような、自分さえ良ければ良いという、抜け目のない、乾いた、優しいとは言えない社会なのではないか、と。

漠とした疑問というのは小泉政権の頃からあったんだけど民主党政権で愕然とし東日本大震災で明確になったように思います。
ボクの年齢を考えれば気付くの遅すぎです。

都会にも田舎にもある人の営みの積み重ねを、将来のために継承していくこと。
国家観とは、そうやって造るものと考えれば何も訝しがることはないでしょう。
国民の多くが、誰かに与えられるのではなく一人ひとりが積み重ねて共有していくものだと意識できていれば、「国家観」をねじ曲げ、悪用しようとする者たちを見逃すことも、利用されることも、起こりにくいだろうと思うのです。

意識の持ちようは、ちょっとした努力で身につけられると思います。



コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。