2作品の最終回お手伝い週間がどうにか終わりました。
お手伝いしたのは「キルラキル」と「Wake Up, Girls!」です。お楽しみに♪
さて
「安倍さんは新自由主義ちっく」…以前は冗談半分に言われていたこれが、ここまで日本経済の首を絞めるところまで来るとは思いもよらなかった。
その点は正直に反省しないといけない。アベノミクスに小躍りしすぎました。
アベノミクス自体が間違っているとは今でも考えていませんが、すでにアベノミクスの基本「金融緩和と財政出動のパッケージ政策」というものは思想面から瓦解しています。
であれば、なぜそうなっているのか考えて批判もしていかないといけないでしょう。
東北復興、防災減災で期待されている国土強靭化基本法に注目です。
この法律をまとめていた藤井聡教授は抱えていた病気の治療を先延ばしして仕事を続けられ、掛け値なしの「命がけ」でしたからね。
問題点をざっと挙げていきます。
『給料崩壊』三橋貴明「新」日本経済新聞
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/03/24/mitsuhashi-100/
『競争の激化とは、具体的には日本国内の労働市場に、「外国人」「女性」などの新規労働者を投入し、さらに企業のリストラを容易にし、あるいは活性化し、労働市場で「労働者同士」の競争を激化させることです。そのために必要な政策が、
「外国人の入出国手続きの簡素化」(最終的にはシュンゲン協定のように国境検査を廃止)
「外国移民の奨励」
「扶養控除の縮小・廃止」
「リストラ助成金(労働移動支援助成金)の拡大」
「派遣労働に対する規制緩和」
「金銭解雇(金銭を払えば解雇できる)の導入」
「解雇特区の設置」
などになるわけですが、恐ろしいことに安倍政権において上記の「全て」が推進されているか、議論されているか、もしくは議論に上ろうとしました。』
政府は小さくし、民間・市場に任せて競争を促進することで成長を高めよう、という考え方。
小泉政権から耳タコなフレーズです。
競争から落ちこぼれる者は負け組「自己責任」…こんな論調もありましたね。
このような政策の基本にあるのは、新古典派経済学を基にした考え方です。
それはざっくり言うと「供給が需要を生み出す」というもので、さらに非自発的失業者(働く意欲があるのに仕事がなくて失業してる人)は ”いない” としています。
働き手がいればそこに仕事がある(生まれる)はずだと考えるのが新古典派経済学に基づく考え方ということです。
学問ならば現実にあり得ない前提でも相関が成り立つかどうかがわかれば良いのです。
科学や医学などでもそうですよね。
ある条件下で成り立つ学説は、もちろん複雑な現実では「常に正しくはない」という留保が必要になります。
そして、この現実にはあり得ない考え方によって拡大される自由貿易。国境を取り外してヒト・モノ・カネのやりとりを自由にしていこうと主張するのが新自由主義と言われるもの。
三橋さんのブログで挙げられている政策は、これらの思想に基づいています。
競争や自由貿易は否定されるものではありません。必要なものだろうと思いますが「常に推進して良い」とは考えません。
デフレ不況から脱却できていない日本経済では、不適切な政策だと言わざるを得ないのです。
なぜ、思想の問題点に気が付かず、現実を見て政策を判断できないんでしょうか?
経済思想の混在
中野剛志・柴山桂太・施 光恒「まともな日本再生会議」と言う本の中で、中野剛志氏はこのように述べています。
『世界のパラダイムは、変革期にあります。新自由主義的な流れからケインズ主義的な流れに戻ってきている。しかし、新自由主義的な流れはしぶとい。ゾンビみたいなもので、「バイオハザード」的な世界です(笑)
こういう時代の変化ですから、政権与党である自民党は最大公約的に新自由主義的な流れとケインズ主義的な流れが混ざってた状態で混乱している。これからせめぎ合いがが続きます。
制度的にはすでに新自由主義が反映されてるし、役所もこの20年間の新自由主義で成功をおさめた人間が幹部を独占していして、人事権を握っている。政治も財界も官僚も、社会人の人生の半分以上を新自由主義者としてすごして、現在の地位に上がり詰めた人間が、「これからは新自由主義をやめます」という訳がない。
20年も人々を苦しめて、自殺者もたくさん出しているのにまだ新自由主義で遊ぼうというのは、いかにもまずい。』
ケインズ主義は超簡単にいうと財政政策を進めるもので、現実経済の不確実性や非効率を認める考え方です。なので取捨選択する政府の権限は確保されないといけない、と考えます。大きな政府寄りですね。
新古典派経済学に基づく新自由主義。そして消費税増税の根拠となった財政均衡主義。
約20年間、この2つがセットとなって日本の経済政策は行われてきました。
政府を小さくして民間に任せる…となれば大企業ほど恩恵に預かれます。大企業ほど政治やマスメディアへの発言力が強い。この思想を改められない背景にはこんな構造もあるわけですね。
小渕政権の時、軌道修正が試みられましたが残念ながら小渕さんは早くに亡くなってしまい元に戻ってしまいました。
リーマン・ショック後も修正できずにいます。
GDPデフレーターは平成六年(1994年)をピークに下がり続けています。下降が2年以上続くとデフレになったと定義されるそうなので、一般的に平成八年か九年(’96年か’97年)からデフレーションに陥っていると言われます。
その頃から自殺者が約1万人急増しました。(グラフが元号表記なので揃えるために少々読みづらいけど併記しています…)

(画像は産経新聞社の2010年5月13日の記事から引用)
内閣府の最新のデータはこちら ( http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/pdf/h25joukyou/zuhyo1.pdf )
急増というのは誇張でもなんでないことがこれらデータ、グラフから見てとれます。
趣旨からズレますが、平成二十三年(2011年)、つまり東日本大震災の年の5月に突出して増えた後減少傾向に転じています。
先の見えない一時的な絶望感から自殺が多発した時期を越え「生きねば」という気持が強まったのではないか。そんな分析を聞いたことがあありますが、数字を見ると納得できる気がします。
それ以降は安倍政権でのアベノミクスへの期待から(と思いたいですが)現在も減少傾向です。
毎年、年度の変わる春に自殺者が増えるのは、やはり次年度への不安が最大になるからでしょう。この傾向も安倍政権になった平成二十五(2013)年度はとてもなだらかになっています。
アベノミクスが原点の形で運用され、デフレを脱却し経済を好転させるものならば、今後さらに自殺する人を減らすことができると思います。
しかし、次年度には消費税が上がります。
財政均衡主義の幻に囚われて、反対する国民や、与党内の反対意見も結果的に無視され、決められてしまいました。
この時、持ちだされたのが、財政政策とのバーターです。
アベノミクスの第二の矢:財政出動そのものが、当初から金融緩和中心政策のためのバーターで作られたんなら、もう絶望せざるを得ません。
金融緩和と同等の「大胆な財政出動」ではなく「機動的な財政出動」…この言い回しの裏を今の状況で読むと、そんな疑念も湧いてきます。
思うに、財政均衡主義というのは新古典派経済学・新自由主義とは相性が良いのかもしれません。
政府の関与を最小化して民間・市場に任せれば適切に均衡するという思想。
政府支出を小さく抑えて赤字を出さないように均衡させようとする思想。
両者が常に連携しているとは言えないかもしれませんが、デフレ期に連携されると最悪の結果をもたらす可能性は極めて濃厚です。
そして消費税増税を控える現在、安倍政権で進められようとしている政策のほとんどが、新古典派経済学・新自由主義と財政均衡主義の連携した結果…最悪を現実にもたらす可能性が、極めて濃厚だと言われているのです。
第二次安倍政権の原点はどこへ?
安倍首相はまずはデフレ脱却して経済再生、東北の復興と国土強靭化、と訴えていました。
目標は間違っていないのです。
国家観の確かさ、実行力の高さも歴代首相では代えがたいと思います。
しかし、誤った方法を取っているために目標の実現が危うくなっています。
なぜ誤った方法をとってしまうのかは、思想面で間違ってしまっているからではないのか?そう疑わざるを得ない。
「個別の政策をあげつらって批判するのは良くない。目標を見誤っていなければ、今はそれで良いじゃないか。」
そんな声がよくあります。ボクもそう思っています。
しかしです。
経済を立ち直せなければ、かねてより目標としていた憲法改正の論議や誤った歴史認識の是正、教育改革などを行う力は衰退してくことになるとの警鐘は以前からありました。
さらに言えば、単に経済再生だけでなく新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義などを進めようとする思想の本質に気が付いていかないと、目標自体が歪んだものになってしまうのではないか?
そうだとすれば、もはや正しい国家観を持っているかどうかも疑わざるを得なくなります。
新古典派経済学・新自由主義は日本の伝統的な思想とは必ずしも一致しないからです。(時期によって利用するのは構わないんですが、利用されてしまってはいけないでしょう。)
戦後レジームを脱却するために立党された自民党が「今はそれで良い」と経済再生に集中し。「今はそれで良い」と日米同盟の片務性も目を瞑り。いつのまにか「戦後レジーム」を戦後レジームの枠内でしか考えられなくなってしまってはいないか?
経済問題で、根本にある思想に疑問を投げかけることが出来ないならば、国家観にも「?」を付けざるを得なくなってしまいます。
安倍首相が新自由主義者かどうかわかりませんが(やっていることはそのものですけどね)「新自由主義やめました」と言える程の覚悟がないと難しい。
たぶん無理でしょう。
安倍さんに全てを託す、そのような考え方もおかしいのです。
安倍さんの代わりがいるのか?そのような極論は思考停止のようなものでは?と思う。
スッキリとした明確な答えは求めても永久にやってこない。
それを求めるのは設計主義だ。
問いかけをし続けて何世代かけてでもやっていく気構えが必要なのかも。
それが、いわゆる「保守」(これも明確な形はない)というものでしょう。
もやもやとした不安、恐怖に耐えられるか。
デフレ不況というのは漠然とした不安感が増幅する状況ですから、パニックになりやすく、ショックドクトリンに騙されやすく、誤りに気がつけなくなってしまいがち。
政治経済以外でもそうなりやすい。わかりやすいスローガンが信じられ易くなってしまいます。
何しろ、無駄や余裕が忌避されて、リスクの少ない確実性のある方法、効率の良い方法、合理的な考え…が最優先されてしまうんですからね。そりゃあ設計主義的な考え方が優勢になりますよ。
デフレは新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義を修正するには最悪な状況ですねぇ。
…もう手に負えないとサジを投げたくなりますが、ちいさな声を重ねて大きくし、政府に届けていくことを心がけるしかないのでしょう。
お手伝いしたのは「キルラキル」と「Wake Up, Girls!」です。お楽しみに♪
さて
「安倍さんは新自由主義ちっく」…以前は冗談半分に言われていたこれが、ここまで日本経済の首を絞めるところまで来るとは思いもよらなかった。
その点は正直に反省しないといけない。アベノミクスに小躍りしすぎました。
アベノミクス自体が間違っているとは今でも考えていませんが、すでにアベノミクスの基本「金融緩和と財政出動のパッケージ政策」というものは思想面から瓦解しています。
であれば、なぜそうなっているのか考えて批判もしていかないといけないでしょう。
東北復興、防災減災で期待されている国土強靭化基本法に注目です。
この法律をまとめていた藤井聡教授は抱えていた病気の治療を先延ばしして仕事を続けられ、掛け値なしの「命がけ」でしたからね。
問題点をざっと挙げていきます。
『給料崩壊』三橋貴明「新」日本経済新聞
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/03/24/mitsuhashi-100/
『競争の激化とは、具体的には日本国内の労働市場に、「外国人」「女性」などの新規労働者を投入し、さらに企業のリストラを容易にし、あるいは活性化し、労働市場で「労働者同士」の競争を激化させることです。そのために必要な政策が、
「外国人の入出国手続きの簡素化」(最終的にはシュンゲン協定のように国境検査を廃止)
「外国移民の奨励」
「扶養控除の縮小・廃止」
「リストラ助成金(労働移動支援助成金)の拡大」
「派遣労働に対する規制緩和」
「金銭解雇(金銭を払えば解雇できる)の導入」
「解雇特区の設置」
などになるわけですが、恐ろしいことに安倍政権において上記の「全て」が推進されているか、議論されているか、もしくは議論に上ろうとしました。』
政府は小さくし、民間・市場に任せて競争を促進することで成長を高めよう、という考え方。
小泉政権から耳タコなフレーズです。
競争から落ちこぼれる者は負け組「自己責任」…こんな論調もありましたね。
このような政策の基本にあるのは、新古典派経済学を基にした考え方です。
それはざっくり言うと「供給が需要を生み出す」というもので、さらに非自発的失業者(働く意欲があるのに仕事がなくて失業してる人)は ”いない” としています。
働き手がいればそこに仕事がある(生まれる)はずだと考えるのが新古典派経済学に基づく考え方ということです。
学問ならば現実にあり得ない前提でも相関が成り立つかどうかがわかれば良いのです。
科学や医学などでもそうですよね。
ある条件下で成り立つ学説は、もちろん複雑な現実では「常に正しくはない」という留保が必要になります。
そして、この現実にはあり得ない考え方によって拡大される自由貿易。国境を取り外してヒト・モノ・カネのやりとりを自由にしていこうと主張するのが新自由主義と言われるもの。
三橋さんのブログで挙げられている政策は、これらの思想に基づいています。
競争や自由貿易は否定されるものではありません。必要なものだろうと思いますが「常に推進して良い」とは考えません。
デフレ不況から脱却できていない日本経済では、不適切な政策だと言わざるを得ないのです。
なぜ、思想の問題点に気が付かず、現実を見て政策を判断できないんでしょうか?
経済思想の混在
中野剛志・柴山桂太・施 光恒「まともな日本再生会議」と言う本の中で、中野剛志氏はこのように述べています。
『世界のパラダイムは、変革期にあります。新自由主義的な流れからケインズ主義的な流れに戻ってきている。しかし、新自由主義的な流れはしぶとい。ゾンビみたいなもので、「バイオハザード」的な世界です(笑)
こういう時代の変化ですから、政権与党である自民党は最大公約的に新自由主義的な流れとケインズ主義的な流れが混ざってた状態で混乱している。これからせめぎ合いがが続きます。
制度的にはすでに新自由主義が反映されてるし、役所もこの20年間の新自由主義で成功をおさめた人間が幹部を独占していして、人事権を握っている。政治も財界も官僚も、社会人の人生の半分以上を新自由主義者としてすごして、現在の地位に上がり詰めた人間が、「これからは新自由主義をやめます」という訳がない。
20年も人々を苦しめて、自殺者もたくさん出しているのにまだ新自由主義で遊ぼうというのは、いかにもまずい。』
ケインズ主義は超簡単にいうと財政政策を進めるもので、現実経済の不確実性や非効率を認める考え方です。なので取捨選択する政府の権限は確保されないといけない、と考えます。大きな政府寄りですね。
新古典派経済学に基づく新自由主義。そして消費税増税の根拠となった財政均衡主義。
約20年間、この2つがセットとなって日本の経済政策は行われてきました。
政府を小さくして民間に任せる…となれば大企業ほど恩恵に預かれます。大企業ほど政治やマスメディアへの発言力が強い。この思想を改められない背景にはこんな構造もあるわけですね。
小渕政権の時、軌道修正が試みられましたが残念ながら小渕さんは早くに亡くなってしまい元に戻ってしまいました。
リーマン・ショック後も修正できずにいます。
GDPデフレーターは平成六年(1994年)をピークに下がり続けています。下降が2年以上続くとデフレになったと定義されるそうなので、一般的に平成八年か九年(’96年か’97年)からデフレーションに陥っていると言われます。
その頃から自殺者が約1万人急増しました。(グラフが元号表記なので揃えるために少々読みづらいけど併記しています…)

(画像は産経新聞社の2010年5月13日の記事から引用)
内閣府の最新のデータはこちら ( http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/pdf/h25joukyou/zuhyo1.pdf )
急増というのは誇張でもなんでないことがこれらデータ、グラフから見てとれます。
趣旨からズレますが、平成二十三年(2011年)、つまり東日本大震災の年の5月に突出して増えた後減少傾向に転じています。
先の見えない一時的な絶望感から自殺が多発した時期を越え「生きねば」という気持が強まったのではないか。そんな分析を聞いたことがあありますが、数字を見ると納得できる気がします。
それ以降は安倍政権でのアベノミクスへの期待から(と思いたいですが)現在も減少傾向です。
毎年、年度の変わる春に自殺者が増えるのは、やはり次年度への不安が最大になるからでしょう。この傾向も安倍政権になった平成二十五(2013)年度はとてもなだらかになっています。
アベノミクスが原点の形で運用され、デフレを脱却し経済を好転させるものならば、今後さらに自殺する人を減らすことができると思います。
しかし、次年度には消費税が上がります。
財政均衡主義の幻に囚われて、反対する国民や、与党内の反対意見も結果的に無視され、決められてしまいました。
この時、持ちだされたのが、財政政策とのバーターです。
アベノミクスの第二の矢:財政出動そのものが、当初から金融緩和中心政策のためのバーターで作られたんなら、もう絶望せざるを得ません。
金融緩和と同等の「大胆な財政出動」ではなく「機動的な財政出動」…この言い回しの裏を今の状況で読むと、そんな疑念も湧いてきます。
思うに、財政均衡主義というのは新古典派経済学・新自由主義とは相性が良いのかもしれません。
政府の関与を最小化して民間・市場に任せれば適切に均衡するという思想。
政府支出を小さく抑えて赤字を出さないように均衡させようとする思想。
両者が常に連携しているとは言えないかもしれませんが、デフレ期に連携されると最悪の結果をもたらす可能性は極めて濃厚です。
そして消費税増税を控える現在、安倍政権で進められようとしている政策のほとんどが、新古典派経済学・新自由主義と財政均衡主義の連携した結果…最悪を現実にもたらす可能性が、極めて濃厚だと言われているのです。
第二次安倍政権の原点はどこへ?
安倍首相はまずはデフレ脱却して経済再生、東北の復興と国土強靭化、と訴えていました。
目標は間違っていないのです。
国家観の確かさ、実行力の高さも歴代首相では代えがたいと思います。
しかし、誤った方法を取っているために目標の実現が危うくなっています。
なぜ誤った方法をとってしまうのかは、思想面で間違ってしまっているからではないのか?そう疑わざるを得ない。
「個別の政策をあげつらって批判するのは良くない。目標を見誤っていなければ、今はそれで良いじゃないか。」
そんな声がよくあります。ボクもそう思っています。
しかしです。
経済を立ち直せなければ、かねてより目標としていた憲法改正の論議や誤った歴史認識の是正、教育改革などを行う力は衰退してくことになるとの警鐘は以前からありました。
さらに言えば、単に経済再生だけでなく新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義などを進めようとする思想の本質に気が付いていかないと、目標自体が歪んだものになってしまうのではないか?
そうだとすれば、もはや正しい国家観を持っているかどうかも疑わざるを得なくなります。
新古典派経済学・新自由主義は日本の伝統的な思想とは必ずしも一致しないからです。(時期によって利用するのは構わないんですが、利用されてしまってはいけないでしょう。)
戦後レジームを脱却するために立党された自民党が「今はそれで良い」と経済再生に集中し。「今はそれで良い」と日米同盟の片務性も目を瞑り。いつのまにか「戦後レジーム」を戦後レジームの枠内でしか考えられなくなってしまってはいないか?
経済問題で、根本にある思想に疑問を投げかけることが出来ないならば、国家観にも「?」を付けざるを得なくなってしまいます。
安倍首相が新自由主義者かどうかわかりませんが(やっていることはそのものですけどね)「新自由主義やめました」と言える程の覚悟がないと難しい。
たぶん無理でしょう。
安倍さんに全てを託す、そのような考え方もおかしいのです。
安倍さんの代わりがいるのか?そのような極論は思考停止のようなものでは?と思う。
スッキリとした明確な答えは求めても永久にやってこない。
それを求めるのは設計主義だ。
問いかけをし続けて何世代かけてでもやっていく気構えが必要なのかも。
それが、いわゆる「保守」(これも明確な形はない)というものでしょう。
もやもやとした不安、恐怖に耐えられるか。
デフレ不況というのは漠然とした不安感が増幅する状況ですから、パニックになりやすく、ショックドクトリンに騙されやすく、誤りに気がつけなくなってしまいがち。
政治経済以外でもそうなりやすい。わかりやすいスローガンが信じられ易くなってしまいます。
何しろ、無駄や余裕が忌避されて、リスクの少ない確実性のある方法、効率の良い方法、合理的な考え…が最優先されてしまうんですからね。そりゃあ設計主義的な考え方が優勢になりますよ。
デフレは新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義を修正するには最悪な状況ですねぇ。
…もう手に負えないとサジを投げたくなりますが、ちいさな声を重ねて大きくし、政府に届けていくことを心がけるしかないのでしょう。
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