東京武蔵野は桜が八部咲きになりました。
昨日は台風のような荒れた天気で気温が下がったりして不安定でしたけど、今日は一転して日本晴。
気持ち良い月曜日です。

今日は以下の記事をネタに考えてみたいと思います。
三橋貴明:グローバリズムと「お祭り」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11809182537.html
台湾の「対中サービス貿易協定」
「グローバル」な取組みとは地球規模の視点で行う様々な取り組みという意味で、常に正しいような錯覚を起こしがちですが、やっぱり正悪の両面があります。
「地球規模の視点で〜」「平和のために〜」「国益のために〜」「◯◯の自由を〜」「人権を〜〜〜」…誰もがYES!と言い易い主張を上手に叫ぶ人が何か一つの考えや方法を常に正しい(常に悪い)ことのように言う。こういうことはいつの世にもあるものですね。
国境をなくし、各国ごとにあるルールや規制を「一つ」に統一化してヒト・モノ・カネのやりとりを行いましょう。そうすればみんなウィン・ウィンで世界平和が実現できて万々歳!
これがグローバリズムの基本ですよね。
新古典派経済学の基本にある「セーの法則」(供給が需要を生む…10作れば必ず10売れるはず…自由貿易で国境をなくして供給を増やせば需要も増えるはず)がグローバリズムや新自由主義を正当化する基本思想になっているとのこと。
このような思想による学説通りの「良い結果」をもたらすには様々な前提条件が必要になりますが、現実にその条件がそろうことはほぼ無いわけです。
ならば現実を見て適切な方法を探り複数の方法を組み合わせたり試行し修繕ていくのが人の道だろうと思うわけですが、台湾の「対中サービス貿易協定」も、日本の「TTP」もまっとうな民主主義が機能しない状態で進められるという似たような問題を抱えているんですよね。
その内容を国民はもちろん国会議員も知ることが出来ない。
三橋氏が指摘するように、秘密協定で行う理由は何なのかも、憶測するしかない異常な状態なのです。
この間のウクライナの問題も、台湾の現在進行形の問題も、日本はまったく他人事ではないんですね。
「一つの」思想や方法論を常に正しいと考えるってのは恐ろしい極論と言わざるをえないでしょう。
お祭り
語源は「祀る」にあると言われます。五穀豊穣を祈念するものでもありますね。
地域のお祭は神社の例大祭に行われるのが基本のようです。
吉祥寺の武蔵野八幡宮は9月15日。実家豊川の牛久保八幡社は4月8日でお祭は5日と6日。その近くの中条神社は3月の最終日曜日が例祭日で手筒花火150本ほどが上げられ奉納されます。それぞれ例大祭に近い土日を使ってお祭りが行われてるようですね。
神社のご祭神は地域ごとに違っていて祭礼の目的も様々。
日本は古来から何か一つのルールや教義に頼らず、何か行動するときの理由付けも「あいまいさ」や「なんとなく」が多く含まれていると思えます。
お祭りにしても、地元の神社のご祭神のことや祭礼の正確な目的などは知らないで参加する人が多いと思う。
現代では休日のイベントとして「楽しいから」見に来る人がほとんどだと思いますが、大昔でも、全ての民がお祭りの意義を意識するような時は飢饉や自然災害の時や、そういう記憶を呼び起こすような祈念の年で、平時は「楽しいお祭り」の意識だったんではないかなぁ…と。
それで良いと思います。
祭礼や意義を重んじて執り行うのは神官だったり、お祭りを主催する一部の人や、信心深い人たち。地域住民からすれば一握りの人々しか強く意識していなかったのでは?と思います。
なので、「お祭りって何?」って訊けば最初は「楽しい催し」と答える人が多いでしょう。
でも、もう少し突っ込んで訊けば「平和や恵みを祈るもの」と答えるかもしれない。
根底にある「八百万の神々」というものも、突っ込んで訊けば「そういえばそうだね」という感じで納得する人も出てくるんじゃないかと思う。
そいうのは「あいまい」に「なんとなく」共有しているんであって、「五穀豊穣だ〜〜!」「八百万の神々が〜〜!」なんて大昔の人だって大上段に構えて叫ぶような人は変な人って思われてたんじゃないかしら。
現代のネット上でも断言口調が嫌われる傾向があるのはそんな意識の表れかな?と。
「あいまい」に「なんとなく」共有できるのは、一つのルールや教義でまとめようとしない心理の現れだと思えます。
島国で、山や河で分けられた小さな地域に住む人たちは、争いの種になるような「これが唯一正しい考えだ!」なんてのを掲げるより、なるべく多くの人が「まぁ、それで良いよ」と思える「あいまい」さ「なんとなく」な感じを選択してきたのではないかと思うのです。「察しと思いやり」も口にすると角が立つようなことを避けるために発達した(外国人から見たら)超能力ですよね(^_^)
大事なことはゆる〜〜く共有されるのが日本流で、だからこそ2000年近く国柄が転覆するような「革命」が起こらなかったのでは?と思うのです。
お祭を見ていると、現代人のボクらと大昔の人の感覚って根っこではつながっていると感じます。
『グローバルなマニュアルに従った「お祭り」など、ゾッとします。』
三橋さんはブログでこう書いてます。
まったくですね。
仮にお祭りを「日本文化を象徴する大事なものだ。八百万の神々を大事にしよう!」と認めていたとしても「地域ごとにバラバラな例祭日を統一して国家規模のお祭りに改革しよう!」なんて言い出したら大反対しなければいけません。
「ゴジラ」では最初の被害があった大戸島の島民が浜辺で海の神を鎮める祭をするシーンがあります。
太古の時代、大切な恵みをもたらす海や河や山が時として大きな災禍をももたらすことから「八百万の神々」という意識が生まれ信仰に昇華してきたと考えられます。祭礼には自然の恵を祈ることと禍事を鎮める両面がありますからね。
日本人が物事には必ず両面があるということを認識していて「一つの」ルールや教義的なものを採用してこなかったのは「鎖国」の目的を考えてみてもわかります。
カトリック(スペイン・ポルトガル)は布教活動を推進してたため禁止し、商売中心のプロテスタント(オランダ)との貿易は認めて欧州の情報も仕入れていました。鎖国は貿易を閉じ世界への眼を閉ざしたんではなく一神教の侵入を防く意味があったわけですね。
しかし、スペイン・ポルトガルの個別の事情(日本以外での権益拡大)や清朝成立でアジア進出を止める国が多かった事情も複合的にあるようで、江戸幕府の交渉力だけでスペインやポルトガルが来なくなったんではなさそうです。この件で江戸幕府を過剰に持ち上げるのは無理がありますね。(この辺り、TPPが日本以外の事情で揉めて延び延びになっているのと似ています。鎖国時代を持ち上げて「安倍政権の交渉力」に期待を持たせるのは軽率だろうと思います。)
とはいえ、この「あいまい」と「なんとなく」も正悪の両面があって、大昔でも近現代でも戦乱を避けられなくなる原因にもなったんですよね。
何か一つの主張を常に正しいかのように上手に叫ぶ人に騙されて、多くの人々が「あいまい」に「なんとなく」扇動されてしまう恐ろしさは、戦争だけでなく、戦後の自虐史観だけでもなく、原発問題だけでもなく、現在進行形の政治経済の問題の数々、それこそ「全てに」「常に」含まれることだと意識していないと人の道を誤ってしまうのかもしれない。
他国の文化(宗教)にも両面を見る姿勢がもちろんあると思います。
あることが良く作用した時は神々のお導きと考え、悪く作用した時は何か神罰が下ったのだと解釈すること。「これは神が与え給うた試練だ。」などと言って外国映画でも見かけますよね。
では。
正悪の両面が入れ替わるかもしれない、または、視点の違いなだけでは?と予感すること、なんてのはあるんでしょうか?
正悪ではなく、どちらも真理で単に人間にとって都合が良いか悪いかの違いでしか無いのでは、という考え方は?
確証はないですが、どちらかといえば、欧米では「唯一正しい考え方」を求め、両面のどちらが正しいか?を求める傾向が強いのではと思ったりします。それは革命や戦争を繰り返してきた歴史に現れているのでは?…と。悪い一面、ですけどね。
日本人もずいぶん欧米的になっているんじゃないですか?
お祭りは、地域ごとの出来事、人によって違う願い事、自然の恵と禍事…様々な物事の両面を感謝したり鎮めたりする。
地域ごとに多様な、個性的な「お祭り」の楽しさと鷹揚な包容力を今年も味わいましょう♪
昨日は台風のような荒れた天気で気温が下がったりして不安定でしたけど、今日は一転して日本晴。
気持ち良い月曜日です。

今日は以下の記事をネタに考えてみたいと思います。
三橋貴明:グローバリズムと「お祭り」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11809182537.html
台湾の「対中サービス貿易協定」
「グローバル」な取組みとは地球規模の視点で行う様々な取り組みという意味で、常に正しいような錯覚を起こしがちですが、やっぱり正悪の両面があります。
「地球規模の視点で〜」「平和のために〜」「国益のために〜」「◯◯の自由を〜」「人権を〜〜〜」…誰もがYES!と言い易い主張を上手に叫ぶ人が何か一つの考えや方法を常に正しい(常に悪い)ことのように言う。こういうことはいつの世にもあるものですね。
国境をなくし、各国ごとにあるルールや規制を「一つ」に統一化してヒト・モノ・カネのやりとりを行いましょう。そうすればみんなウィン・ウィンで世界平和が実現できて万々歳!
これがグローバリズムの基本ですよね。
新古典派経済学の基本にある「セーの法則」(供給が需要を生む…10作れば必ず10売れるはず…自由貿易で国境をなくして供給を増やせば需要も増えるはず)がグローバリズムや新自由主義を正当化する基本思想になっているとのこと。
このような思想による学説通りの「良い結果」をもたらすには様々な前提条件が必要になりますが、現実にその条件がそろうことはほぼ無いわけです。
ならば現実を見て適切な方法を探り複数の方法を組み合わせたり試行し修繕ていくのが人の道だろうと思うわけですが、台湾の「対中サービス貿易協定」も、日本の「TTP」もまっとうな民主主義が機能しない状態で進められるという似たような問題を抱えているんですよね。
その内容を国民はもちろん国会議員も知ることが出来ない。
三橋氏が指摘するように、秘密協定で行う理由は何なのかも、憶測するしかない異常な状態なのです。
この間のウクライナの問題も、台湾の現在進行形の問題も、日本はまったく他人事ではないんですね。
「一つの」思想や方法論を常に正しいと考えるってのは恐ろしい極論と言わざるをえないでしょう。
お祭り
語源は「祀る」にあると言われます。五穀豊穣を祈念するものでもありますね。
地域のお祭は神社の例大祭に行われるのが基本のようです。
吉祥寺の武蔵野八幡宮は9月15日。実家豊川の牛久保八幡社は4月8日でお祭は5日と6日。その近くの中条神社は3月の最終日曜日が例祭日で手筒花火150本ほどが上げられ奉納されます。それぞれ例大祭に近い土日を使ってお祭りが行われてるようですね。
神社のご祭神は地域ごとに違っていて祭礼の目的も様々。
日本は古来から何か一つのルールや教義に頼らず、何か行動するときの理由付けも「あいまいさ」や「なんとなく」が多く含まれていると思えます。
お祭りにしても、地元の神社のご祭神のことや祭礼の正確な目的などは知らないで参加する人が多いと思う。
現代では休日のイベントとして「楽しいから」見に来る人がほとんどだと思いますが、大昔でも、全ての民がお祭りの意義を意識するような時は飢饉や自然災害の時や、そういう記憶を呼び起こすような祈念の年で、平時は「楽しいお祭り」の意識だったんではないかなぁ…と。
それで良いと思います。
祭礼や意義を重んじて執り行うのは神官だったり、お祭りを主催する一部の人や、信心深い人たち。地域住民からすれば一握りの人々しか強く意識していなかったのでは?と思います。
なので、「お祭りって何?」って訊けば最初は「楽しい催し」と答える人が多いでしょう。
でも、もう少し突っ込んで訊けば「平和や恵みを祈るもの」と答えるかもしれない。
根底にある「八百万の神々」というものも、突っ込んで訊けば「そういえばそうだね」という感じで納得する人も出てくるんじゃないかと思う。
そいうのは「あいまい」に「なんとなく」共有しているんであって、「五穀豊穣だ〜〜!」「八百万の神々が〜〜!」なんて大昔の人だって大上段に構えて叫ぶような人は変な人って思われてたんじゃないかしら。
現代のネット上でも断言口調が嫌われる傾向があるのはそんな意識の表れかな?と。
「あいまい」に「なんとなく」共有できるのは、一つのルールや教義でまとめようとしない心理の現れだと思えます。
島国で、山や河で分けられた小さな地域に住む人たちは、争いの種になるような「これが唯一正しい考えだ!」なんてのを掲げるより、なるべく多くの人が「まぁ、それで良いよ」と思える「あいまい」さ「なんとなく」な感じを選択してきたのではないかと思うのです。「察しと思いやり」も口にすると角が立つようなことを避けるために発達した(外国人から見たら)超能力ですよね(^_^)
大事なことはゆる〜〜く共有されるのが日本流で、だからこそ2000年近く国柄が転覆するような「革命」が起こらなかったのでは?と思うのです。
お祭を見ていると、現代人のボクらと大昔の人の感覚って根っこではつながっていると感じます。
『グローバルなマニュアルに従った「お祭り」など、ゾッとします。』
三橋さんはブログでこう書いてます。
まったくですね。
仮にお祭りを「日本文化を象徴する大事なものだ。八百万の神々を大事にしよう!」と認めていたとしても「地域ごとにバラバラな例祭日を統一して国家規模のお祭りに改革しよう!」なんて言い出したら大反対しなければいけません。
「ゴジラ」では最初の被害があった大戸島の島民が浜辺で海の神を鎮める祭をするシーンがあります。
太古の時代、大切な恵みをもたらす海や河や山が時として大きな災禍をももたらすことから「八百万の神々」という意識が生まれ信仰に昇華してきたと考えられます。祭礼には自然の恵を祈ることと禍事を鎮める両面がありますからね。
日本人が物事には必ず両面があるということを認識していて「一つの」ルールや教義的なものを採用してこなかったのは「鎖国」の目的を考えてみてもわかります。
カトリック(スペイン・ポルトガル)は布教活動を推進してたため禁止し、商売中心のプロテスタント(オランダ)との貿易は認めて欧州の情報も仕入れていました。鎖国は貿易を閉じ世界への眼を閉ざしたんではなく一神教の侵入を防く意味があったわけですね。
しかし、スペイン・ポルトガルの個別の事情(日本以外での権益拡大)や清朝成立でアジア進出を止める国が多かった事情も複合的にあるようで、江戸幕府の交渉力だけでスペインやポルトガルが来なくなったんではなさそうです。この件で江戸幕府を過剰に持ち上げるのは無理がありますね。(この辺り、TPPが日本以外の事情で揉めて延び延びになっているのと似ています。鎖国時代を持ち上げて「安倍政権の交渉力」に期待を持たせるのは軽率だろうと思います。)
とはいえ、この「あいまい」と「なんとなく」も正悪の両面があって、大昔でも近現代でも戦乱を避けられなくなる原因にもなったんですよね。
何か一つの主張を常に正しいかのように上手に叫ぶ人に騙されて、多くの人々が「あいまい」に「なんとなく」扇動されてしまう恐ろしさは、戦争だけでなく、戦後の自虐史観だけでもなく、原発問題だけでもなく、現在進行形の政治経済の問題の数々、それこそ「全てに」「常に」含まれることだと意識していないと人の道を誤ってしまうのかもしれない。
他国の文化(宗教)にも両面を見る姿勢がもちろんあると思います。
あることが良く作用した時は神々のお導きと考え、悪く作用した時は何か神罰が下ったのだと解釈すること。「これは神が与え給うた試練だ。」などと言って外国映画でも見かけますよね。
では。
正悪の両面が入れ替わるかもしれない、または、視点の違いなだけでは?と予感すること、なんてのはあるんでしょうか?
正悪ではなく、どちらも真理で単に人間にとって都合が良いか悪いかの違いでしか無いのでは、という考え方は?
確証はないですが、どちらかといえば、欧米では「唯一正しい考え方」を求め、両面のどちらが正しいか?を求める傾向が強いのではと思ったりします。それは革命や戦争を繰り返してきた歴史に現れているのでは?…と。悪い一面、ですけどね。
日本人もずいぶん欧米的になっているんじゃないですか?
お祭りは、地域ごとの出来事、人によって違う願い事、自然の恵と禍事…様々な物事の両面を感謝したり鎮めたりする。
地域ごとに多様な、個性的な「お祭り」の楽しさと鷹揚な包容力を今年も味わいましょう♪
Comment:1
コメント
お祭ってどうしてやるの?と言う質問には、面白いから・・・と答えます。
手筒花火もおそらく最初はバンジージャンプの如く度胸試しだったかもしれません。
いまでも多くの神社では手筒花火は余興と言う位置づけのようですね。
手筒花火発祥の地、吉田天王社(現神社)では神社ではなく、道路で出していたそうです。そのためよく火事が発生したとか。
中条神社の手筒花火は案外と新しく、日露戦争の戦勝祝いだったかな?その時に牛久保でも手筒を出したようでそのためか上若と西若は今でも法被は刺し子です。
手筒花火もおそらく最初はバンジージャンプの如く度胸試しだったかもしれません。
いまでも多くの神社では手筒花火は余興と言う位置づけのようですね。
手筒花火発祥の地、吉田天王社(現神社)では神社ではなく、道路で出していたそうです。そのためよく火事が発生したとか。
中条神社の手筒花火は案外と新しく、日露戦争の戦勝祝いだったかな?その時に牛久保でも手筒を出したようでそのためか上若と西若は今でも法被は刺し子です。
ビロ
2014.03.31 22:05 | 編集
