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2008
04.04

やっぱりシベリウス

Category: 音楽
ここんとこシベリウスの交響曲第5番、7番がヘビーローテーションだ。

何度聴いても飽きがこない。
同じ場所でも同じ景色が2度と見られないのと同様、同じCDの同じ信号が音になって出ているだけなのに。
何故こうも毎回新鮮に聴こえるんだろう。

シベリウスの音楽は「自然」に例えられることがあります。
北欧の森と湖、トナカイの佇む野原や白鳥が舞う空。
そうした風景を思い浮かべれば彼の音楽を体感するのに有効な手がかりになるのは確かでしょう。
しかし、彼の音楽は自然を「描写」したものではないですね。
むしろ自然そのもの、と言った方が良い。
だからキレイばかりじゃない。
都合の良いところを切り取ったダイジェストでも、自然ってすばらしい!という時の実を言えば人間賛美じゃないか、というものでもない。
不揃いで、不格好で、落ち着かない気分もそのまま音楽になっている。
森の中で方向間感覚を失って不安になる感覚や、木の幹のウロに何かが潜んでいる恐ろしさもそのまま音の中にひょっこり顔を出すのだ。

油断して、一つ間違えれば死ぬかもしれない感覚。
一方で人が森を壊しながら生きている現実もひっくるめてそのまま音にして放り出したような凶暴さすら感じることがある。
交響曲第5番は1915年から19年の作。
地球温暖化などだれも考えていなかった時代の音楽だ。
それなのに、人と自然が交わる時の幸・不幸といった感覚がうねるような音の連なりで聴こえて来る。
この曲のフィナーレを「自然讃歌」と解説しているラーナーノーツをよく目にするけど、ボクはほとんど同意できない。


第7番は本当にどう形容していいか分からない。
無心に聴けば聴くほど体験に近くなる音の連なり。
ただただ、滔々と音が流れているようにも聴こえる。
メロディだとか和声だとか、それらの音楽的・文学的な「意味」などまったく入り込む余地がない、純粋な音の連なり。
なんて言うと大げさだけど、風の音や自分の鼓動の音に意味などない訳で、それと同じことなのかもしれない。
こんな風に言ってしまうのは能天気かもしれないけど、ボクは学者じゃないしね。


今年は久々に、しんしんと降る雪の音、を聴くことが出来た。
その感動とシベリウスの音楽に動かされる心の動きというのは近いものがあるのでなかろうか。
それがどういうことなのかボクには分からない。

分からないままこれからも聴き続けるんだろう。







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